露軍将校遺体漂着記念碑は、明治38年(1905年)5月27日に終わった日本海海戦のバルチック艦隊撃滅の時、約3週間後に、田後港の沖合で発見されたロシア将兵遺体を漁師が港へ連れて帰り、敵国であれど同じ人間だ、仏になったなら丁重に供養するがよかろう、と判断し地元の村民が葬儀を営み、埋葬したことを記念して...
鳥取県は、日本の歴史同様、古代から領土問題や人々の地位の問題で合戦を繰り返してきました。戦国時代、尼子氏と毛利氏の戦いや鳥取城攻め、因幡・伯耆の武将の朝鮮出兵、島原・天草一揆、日清・日露戦争など様々な争いがおき、岩美町でも浦富お台場公園(国史跡)や駟馳山の防空監視所などの戦跡があります。
また青谷上寺地遺跡の調査によると弥生時代にも戦争があったと考えられているそうですね。現代の調査精度はすごいなあっと興味深く情報を取り入れています
近代になると第二次世界大戦中に空襲を受けました。特に1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲以降、米軍による本土空襲が本格化し、鳥取県内の各地も攻撃対象となり、岩美町もその一環として空襲を受け、3名の死者がでました。
戦後、岩美町は復興に向けて努力し、現在では観光地としても知られる美しい町となっています。歴史的な背景を知ることで、地域の成り立ちや戦争の影響を理解することができます。