講座レポート・荒砂神社の石灯籠と桐山の鰯番小屋と雲海風絶景

山陰海岸ジオパークガイド養成講座中級編・第2回『荒砂神社・桐山城址』のレポートです。

あいにく、朝8時頃からしとしと小雨模様でしたが13時に荒砂神社に集合し、講師(案内人)の油浅代表から、荒砂神社の由来、祭神、鳥居の前の「両村和合繁栄」の石の常夜灯等についての説明を受けました。

荒砂神社の石灯籠について

石灯籠を寄進した松田道之とは、明治政府に出仕した鳥取藩士の中で一番の出世頭であり44歳で亡くなった時、道之は東京府知事でした。

寄進の理由は、常夜灯の背面に記してあります。

荒砂神社奉納されている山中鹿之介寄進の箭

石段を登り、拝殿に入ると、中に、尼子の家臣山中鹿之助幸盛が寄進したと伝えられる箭が2本、額に収められて奉納されています。

「荒砂神社宝物記録に100筋寄進」との記録。明治年間の記録には16筋、3筋と記載されていて現在では2筋が残っています。

荒砂神社の拝殿を出て横に回ると後方に本殿が覗いています。四方の五段隅垂木の龍の彫刻は見事ですね。

棟札に「当国岩井郡唐川邑住人、住居ハ鳥取立川町 文化拾歳 本棟梁 藤原小倉園三郎吉久作之 作年二拾八才」と刻まれています。

桐山頂上に位置する桐山城址(城跡)

荒砂神社を後に、浜浦富の旧道を抜け、浦富焼きの窯元の横を通り、奥市登山口から標高203mの桐山に登りました。

桐山頂上には、桐山城跡があります。築城年代は不明ですが、鹽冶周防守が急峻かつ岩山で攻めがたく、眺望の良く守りやすい地形で、また田後、岩本、網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたそうです。

その後、荒砂神社に箭を奉納した山中鹿之助が入城(1572)しその後、垣屋光成、恒房親子が20年間、池田正虎が15年間、さらに鵜殿氏が幕末まで浦富を領したそうです。

登り始めると雨はほぼあがりましたが、周囲の山々はガスで覆われ、麓も見通せない状態に…しかし、少しずつガスも薄れ、時々見通せるようになりました。

頂上付近では霧の間に荒砂神社の木々やその先の向島等が現れ、「天空のお宮や!」と参加者の声が聞こえました。

流れる雲海の合間から浦富や網代、大谷、牧谷の街並みが見渡せ、滅多に見られない絶景、1人では不安ですがガイド付きで複数人で登る安心感もあり今日の天候に感謝感謝でした。

切岸、郭の跡、大手通や搦手跡なども確認し、下山に向かい、いわし山番小屋跡を経て下山したましたが、いわし山番小屋は、海に突き出た場所にあります。

昭和30年代まで、いわし網漁が盛んに行われ、いわし山に旗が上がると出漁し、自分の組の旗が見えると、田仕事をしていても浜まで戻り網を引く準備をしたと伝えられており、いわし山では、いわしの動きを見ながら、浜で網を引く人に合図を送ります。

特に赤い番傘を振って合図をしていた「ゲンタカ婆さん」のことは今でも語り継がれています。

いわし山番小屋からみた浦富の浜、かつてはここからいわしの群れを追い、合図の旗を振っていたことが想われます。

いわし山番小屋を引き返し、途中木製の雨に濡れた階段を滑りそうになりながらいわし山登山口に向け参加者の皆さん無事に下山しました。

11月27日に桐山登山イベント開催

いわみガイドクラブでもお馴染み?の岩美町の桐山は地元の有志”MiDの会”(いわみガイドクラブ代表が兼任)の手により整備されていますが、

メンバーも高齢化が進み、今のままですと5年後、10年後と整備が行き届かなくなる不安も抱えています。

最近、『浦富アルプス』として網代、岩本、田後から桐山城址へ登山される方も増えてきました。

桐山好きな人集まれイベントをご確認ください