国府町の古墳巡り~新井の石船、 福吉部徳足比売墓跡を学ぶ

新型コロナ感染症特別警戒警報発令のために9月開講予定の延期したガイド養成講座中級第1回を開催しました。今回は、昨年実施した岩美町の古墳巡り(小畑古墳群、高野坂古墳群)に続き、「国府町の古墳巡り~新井の石船、 伊福吉部徳足比売墓跡、他」として隣接する鳥取市国府町の古墳を実地検分です。講師にはいなば国府ガイドクラブの沖さんはじめ、クラブの皆様に依頼をして案内していただきました。

国府町の古墳巡り~新井の石船、 伊福吉部徳足比売墓跡、他

伊福吉部徳足比賣の墓石跡

伊福吉部徳足比賣の墓石跡は国指定の史跡です。青銅製の骨臓器が埋葬されていた場所で、鉢型の骨臓器の蓋の表面には、この地の豪族伊福吉部の娘徳足比賣が文武天皇の時、大和の宮廷に仕え、従七位下を賜ったこと、和銅元年(708)に亡くなり火葬にされ、因幡国に送られ、骨臓器に入れて葬られたことが記載されています。(骨臓器は、国指定の重要文化財で東京国立博物館に所蔵) 無量光寺の裏から山道を10分ほど登った所に、小高く広がった台地に、保護のための屋根の下に発見当時のまま現存されていました。

右側の石の穴に骨臓器収められ、手前の石の上に伏せられて埋めてあったとされています。

新井の石船古墳

新井の入口から集落を通り抜け、案内の矢印に従って谷あいの道を約10分上がると、開口した古墳に到着しました。羨道部や入り口は埋没し、玄室は一部露出しています。その暗闇の中に、凝灰岩の切石造りの家型石棺(通称二位の石船)が見られます。

源平の頃、安徳天皇が岡益に潜行され、その後崩御。石船はお供の二位の尼を葬ったもので、「二位の石船」と呼ばれたそうです。 この古墳の左側15m、右側7mにも崩れた古墳の開口部が見られます。

学行院(真言宗醍醐派)

和銅年間(710年頃)、薬師如来を本尊とする花慶山光良寺が創建(寺伝)され戦乱と盗賊により廃寺寸前のところを、慶長9年(1604)、土地の農民(紹慶)と修験者(覚行)が本尊を安置して小寺を作り、後に学行院と呼ばれました。

収蔵庫内には、平安時代後期作とみられる木造釈迦三尊像(薬師如来像、日光・月光菩薩像)と木造吉祥天立像が安置されています。台座まで残っているものは非常に少ないそうです。いずれも国の重要文化財です。

※学行院の薬師如来、脇侍の日光、月光菩薩及び吉祥天立像は現在重要文化財で写真撮影が出来ませんでした。

国府万葉の歌碑

修了後、宇倍神社参道のお店で昼食、国府ガイドクラブといわみガイドクラブの交流会を開催しました。貴重なお時間とお話、ありがとうございました。

今回で令和3年度の山陰海岸ジオパークガイド養成講座はすべて修了いたしました。各講座にて講師をしていただいた皆様ご協力いただきありがとうございました。