荒金鉱山は鳥取層群の流紋岩に発達した熱水鉱脈床で黄銅鉱・黄鉄鉱を主体とした日本最古の鉱山(銅山)で、採掘された銅鉱が698年に朝廷(文武天皇)に献上されたとの記録があるようです。
その後、1889年(明治22年)に銅の露頭が発見されてからは繁栄し、1926年(大正15年)には山陰本線岩美駅と岩井温泉・荒金鉱山を結ぶ岩井町営軌道もでき、現在は廃線ですがトロッコ跡は残っている所もあります(写真参照)
また、1943年の鳥取震災では大量の鉱泥を集めていた堰堤が決壊する災害が起こり65名の犠牲者が出ました。その後、1955年11月15日に閉山しましたが現在でも坑排水処理事業が行われ、見学もできます。
岩美(荒金)鉱山の入坑は事前予約が必要です。岩美町鉱害防止協会0857-72-0426
和銅年間(710年頃)元明天皇に銅を献上した際に「荒金(あらかね)」と命名されたことから荒金鉱山と呼ぶようになったと記録があります。
坑道の総延長は29.2kmもあり発展していたのですが1943年の鳥取地震により大量の鉱泥を集めていた堰堤が決壊し、約4万3000㎥の鉱泥が流出したため、堰堤直下にあった朝鮮人労働者の飯場や荒金集落を直撃し、朝鮮人労働者とその家族28名と日本人37人の合計65人が犠牲となってしまいました。鉱山労働者や地元住民が2ヶ月にわたって遺体の収容作業を懸命にしましたが、現在も32〜33名の遺骨が鉱泥の下に埋まったままになっていて、1948年に慰霊碑を建立し、慰霊祭も行われるようになりました。
また、鉱山から流れ出た鉱毒は小田川を汚染し、魚の住めない「死の川」へと変えてしまいました。岩美町鉱害防止協会では閉山後も続く環境に関する取り組みである坑排水処理事業である、酸性水や貴金属などが環境に及ぼす悪影響を取り除き鉱害を防ぐ事業をされ、小田川や荒金川に魚が戻ってくるまでの環境改善を目指し取り組まれています。また現在では地元の「小田川・荒金川に魚を蘇らせる会」が稚魚放流などを行い、2017年はサケの遡上も見られるようになったとの解説を受けました。
岩美町出身の社会主義運動家・村上吉蔵(1897年〜1982年)は荒金鉱山の鉱毒問題解決のため尽力したと記録があります。
慰霊碑の前で、「旧岩美鉱山の概要や昭和18年(1943年)の地震による被害など」をおさらいしてから旧岩美鉱山の坑道の一つに入りました。鉱山の中は14度と涼しく、入り口はひんやりした風が…。ヘルメットを被り中に入ります。
入り口付近はコンクリートで整備されていて200mほどまで歩いて入れます。
奥に進んでいくとここからは立ち入り禁止区域で鉱山の中を覗くようにして見れます。旧日本鉱業株式会社によって採掘が行われ、裂罅充填型鉱脈鉱床で、銅の他に金・銀・鉛・亜鉛なども産出したそうです
またトロッコ軌跡では、当時を想像しながら歩きました。