澤田美喜(社会事業家)2.縁談~外国生活

澤田美喜(社会事業家)2.縁談~外国生活

エリザベスサンダーズホーム創始者の澤田美喜さんの歴史、縁談~外国生活までの解説をします

澤田美喜さんの生い立ちと歴史2.縁談~見合い~挙式~結婚後の生活

澤田美喜さんの私の履歴書を要約した澤田美喜さんの生い立ちと歴史1.誕生~学生時代 の続きです。

多方面の取材や書籍で美喜さんご自身が自分は男みたいだ・男勝り・だなどといわれてきたという表現が多いので、ここでも記載しますが周りがそう思っていたのか、本当に言われたのかは定かではありません。今後も美喜さんのエピソードよりこのような表現は続きます。また時代背景による価値観で現代にそぐわないこともございますがご了承ください

縁談:外国生活にひかれ見合い

岩崎家の従姉妹が華族との結婚していくにつれ美喜さんにも園遊会や音楽会などで【遠見】の気配が高まってきました。美喜さんは華族である祖先の光と地位にふさわしくない子孫たちの振る舞いがたまらなく嫌だったこともあり、それを察した周りはわずかな縁談を送ってくる程度だったそうです。

 

その間、美喜さんは変わらず勉強と運動に励んでいました。

 

そのうちおばあ様が心配をし、お父様お母様も娘が結婚する気になるようにと美喜さんが小さなころからあこがれていた一番気に留める【外国生活】を餌にしはじめました。お父様の妹である加藤の春路叔お母様さんや幣原の雅子叔お母様さんが美喜さんの周りで海外生活を語り、せっかく語学を習っているのだから活かすべきだとおだててきたので少しずつ心が動き始めたところ、加藤の叔お父様さんと幣原の叔お父様さんが澤田廉三さんの縁談を岩崎家に持ちかけました。

 

この縁談は美喜さんには伝えず進めていましたが美喜さんは気づいていました。しかしいつものように聞かぬふりをしていました。そのとある日、従兄の家で見合いをすることに決まり、まだ周囲が美喜さんには話せずにいた当日の朝、お母様から

 

今日はお茶のお客様があるそうだ。いつものように外国の方かもしれない、外務省の方も見えるかもしれないから身なりは正しく清楚にして行きましょう

といわれ、『そら来たな』と思いましたが、いつもの遠見や突然の縁談とは違い事前に少し説明があったことで人権を尊重されたと思い、受け入れたそうです。

お見合いの日:平凡な2時間がハレモノにさわるよう

いよいよお見合いの日、お母様と一緒に朝湯に入り、岡部家にいくと、加藤の叔お母様さんだけが部屋に残り、

 

たぶらかしてしまったようだけど、今日は私たちみんなが外国生活を望む美喜さんに最もふさわしい男性を引き合わせようとして呼んだのですからそのつもりで…彼は華族ではないので安心して…

と美喜さんを理解している叔お母様様からハッキリといわれたので覚悟を決めて何も言い返す受け入れたそうです。岩崎家でいうお茶の時間は3時頃だったので30分早めについたのですが、フランス帰りの廉三さんのお茶の時間は早くても4時半から5時だということで約二時間またされることとなりました。

 

このお見合いは内密に行われていたので運転手に廉三さんとのことを帰ってお手伝いさんたちに話さないよう、廉三さん一行と鉢合わせしないためにお使いを言いつけたり忘れ物を取りにいってくるようにと言い訳を付け運転手を不在にしながらそわそわと廉三さんがやってくるのを待ちました。

 

廉三さんとのお見合いはお互いどちらかが話して聞いて、平凡ながらもお互い観察していないようでしているような二時間が過ぎ、廉三さんが帰った後、みんな美喜さんに気を遣いハレモノに障るかのように誰も口を開かなかったそうです。このお見合いは美喜さんが22歳の時の事でした。

結婚の決心:二つの願いを掛けて

お見合いの次の日、その次の日も誰も何も言いませんでしたが、3日目になるとお父様が

 

大変良いと思うから俺は決めたよ、お前が考えている外交官夫人として外国生活できるし、お前はおばあさんにいわれて口に出さなくなったキリスト教についてまだ考えているんだろう?澤田君はクリスチャンだしお前の考えている宗教に入ることもできる。岩崎家の皆がこの結婚を喜んでいる、みんなから祝福されて嫁ぐべきであると俺は思うね

と言いました。美喜さんは廉三さんに対してひとめぼれしたとか夢中になってというよりは

 

正直なところ…外国に行くこととクリスチャンになるチャンスに恵まれているし、岩崎家一同が祝福してくれるということはご先祖様も喜ばれるだろう

ということで『イエス!』となり、4月に見合いをし、5月に岩崎家で家族一同で会食、6月に両家のお茶会を岡部家の庭で開催し、7月1日の四回目の対面が結婚の日となりました。

挙式:自由の息吹き感じる

床上げから育ててくれたおばあ様の『華族の奥方に』という夢を叶えてあげられず、澤田家に嫁ぎました。岩崎家を離れてはじめて今までに味わったことがない自由感で大きな息吹きを青空につくことができた反面、古巣がたまらなく懐かしく思え、おばあ様のことで胸をうずくこともあり、女中さんに大変お世話になったことやお仕事の在り方をひしひしと思い出して懐かしくなりました。

 

澤田家はクリスチャンなので日曜日の礼拝に一緒に行けることがとても喜びで、澤田家のお母様は田舎の小さな漁村にやってきた宣教師に洗礼された一人で、家族皆真面目でした。岩崎家では食事の際に冗談を言ったりわいわい会話をするので、つい澤田家の食卓で冗談を言ってみたところ、誰一人表情を変えない食卓、この生真面目な標準に合わせることに最初は苦労したそうです。

 

※澤田家の様子、一緒にすると失礼ですがなんだか鳥取の県民性も感じますね。

澤田家のある岩美町へ:覗きに来る村人

結婚して2ヶ月経過し、お墓参りを兼ねて澤田廉三さんの実家である鳥取県岩美町に初めて訪れました。普段見ている太平洋とは違う海の美しさと松の木と島々に惹かれ、すぐにでも飛び込みたくなるほどでしたが村の人達が美喜さんに目を向けているので断念しました。

 

澤田家の海を望む家の窓辺に座っていても居間にいても散歩しても木々の間から人の目を感じ自分は何か変なのだろうか?と本気で思ったほどだったようです(悪気はないけど興味がある村の人たちの様子、すごく想像できます)

 

とある朝、あまりにも美しすぎる海に我慢が出来なくなり、誰もいないうちに…っと海に飛び込んだそうです。東京で生まれて『帰省する』という経験をしたことがないのでこれから自分の故郷にもなると思うと親しみがわき、毎年夏休みに岩美に帰るようになりました。村の人々は都会育ちの美喜さんに心尽くしのおもてなしをして交流しました。

 

ある日、舟を出して1日海岸沿いを案内してくれた際に、入り江に囲まれた白い砂浜を見つけました。うしろに高い山、小さな畑が開墾してありひとめぼれをしてこの浜を手に入れることを決めたのです。
熊井浜鴎鳴荘
それが熊井浜です。

 

 

この約300坪くらいの土地に建てた小さな家『鴎鳴荘』が戦争中の疎開先になり、その後エリザベスサンダーズホームの子どもたちが毎年出かける臨海学校の宿泊地になったのです。当時は人種差別があったのですが、この入り江になったプライベートビーチだと周囲の目を気にせず思い切り海で遊べ、岩美の子供たちとも野球をしたり交流があり、卒業生は今でも美喜さんのお墓参りに岩美に訪ねてこられ熊井浜に降り立つ人もいます。

その年の12月9日に横浜からアルゼンチンに向かいました。おばあ様との別れがつらく、前日にアルゼンチン生きは中止にしたいとお母様に話すと、お母様は驚いて

 

あれほど外国に行きたいといってたではないの?妊娠のこともおばあさまが聞くと止められるので報告していないのだから…

と諭され妊娠4ヶ月の美喜さんは後ろ髪を引かれる思いでアルゼンチンに向かいました。この時がおばあ様と会った最後で、出産3か月前におばあ様は生涯を閉じました。

南米時代:長男誕生とゴルフ

1923年、アルゼンチンに向かうため横浜からバンクーバーの渡航、ここで生まれてはじめて自分のことを一人ですることを習い、未知のことに挑戦する面白さを味わい、バンクーバーからシアトル、セントポール、シカゴ、ニューヨークと経て行く中で自由の国といえども人種差別があることも体感したようです。

 

廉三さんの任務地であるアルゼンチンの日本公使館では日本人妻は美喜さんのみで、スペイン人の配偶者ばかりだったそうで、語学のコミュニケーションに当初は苦労したようです。また、大統領夫人との交流ではフランス語もスペイン語もわずかしか話せない美喜さん、英語が話しきれない夫人と何時間も相手を理解しようとしたりして過ごし、言葉だけでなく心と心の通じ合いの喜びを実感し、さらに出産時には言葉が通じない美喜さんの為に親日家の海軍大臣ドメックガルシャ夫妻が親切にしてくれて無事に長男が産まれましたが、それからスペイン語の学習に力を入れ夢中になって毎日3時間先生について勉強をしました。

 

スペイン語学習だけでなくタンゴの大会に出たりゴルフを楽しんだり運動の一環で乗馬もされたようです。

 

南米生活ではブラジルのリオデジャネイロにも3日間行きましたが美喜さんは

 

まさか、私の将来の運命がこの国にまで伸びていこうとは夢にも思いませんでした

と語っています。※この話は戦後に続きます。

北京生活:宣統皇帝夫妻(溥儀)を見る

アルゼンチンの次に、北京への転任が決まった1924年、第二子を妊娠していた美喜さんは北京に向かう道中、日本に帰国して次男を出産し、先に渡航していた廉三さんを追って北京に入りました。

 

北京について3日目、宣統皇帝(溥儀)が馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し紫禁城から逃れてきたのです。その2、3日後には皇后も、妃も廷臣たちも集まってきて公使館の一つの公邸は皇帝の住居となり、白馬に乗った皇后の散歩姿はまるで絵画から飛び出してきたような美しさだったと語っています。

 

また北京では月に一度はキリスト教の集会に参加して過ごし、三男を出産し1927年に帰国し1928年に長女を出産し、1931年に廉三さんがイギリス・ロンドンへ転任となりました。

ロンドンでの生活:運命を変える転機に

ロンドンへは4人の子供を連れて転任となりました。イギリスは封建的な重々しい程の落ち着きと道徳観念の強さ、信念を貫く誠実さにお父様親の教育を思い出して初めは拒否反応もありましたが次第に親しみを感じるようになったようです。美喜さんは

 

私は生まれながらに物質的に恵まれて過ぎた家庭に育ち、望むものはすべて与えられ、得られるということに慣らされていました。言い換えてみれば物質で幸福も買えると思っていたのでした。ロンドンの生活は私の心の目を開いてくれたのでした。
私は物質では買うことのできない幸せがあることに気付いてハッと立ち尽くし、心の目が拓くということは恐ろしいもので、昨日まで明るく見えてたものが急に真っ暗になってしまいます。

と語っています。そう意識が変化してからは、学んだ語学を実際に使って楽しんで過ごすも、お茶、午餐、夜会、社交界の催し、賛美の繰り返しに興味がなくなりました。

 

主人の出世のため、位置の昇格の為に心にもないことをお務めにしなければならない生活に何が残るのでしょうか?人の為、世の為になっているのでしょうか?お母様国を離れているものがどうしてお互いに親しみ合えないのでしょうか?

いつもつまらない争い、表面に出なくても心と心の中にある戦いはもっと辛いものでお互いに頼り合いをするはずが、悲しい思いを見るようになり、この頃から美喜さんは不安定な生活に疑惑を持つようになり何かを求めて焦り始めていました。

 

イギリスは社会事業がいきわたり社会福祉制度も素晴らしい国で報酬を求めないで奉仕する精神を誰もが持っている国で、美喜さんはこの中に自分が求めているものが見いだせるような気がして毎日毎日祈りの中に知らず知らずのうちに社会事業に心が開いてきたのです。

 

日曜日ごとに通ったセルウィン司祭はとくに美喜さんの心の目を開き、とある日曜の拝礼のあとにセルウィン司祭に英国人の老夫婦を紹介され、ドライブでたどり着いたのが『ドクターバナードスホーム』でした。

英国で学んだこと:毎週孤児院へ奉仕に

『孤児院!?』この名を聞いて周りを見渡すと日本の孤児院とは全く違い、明るく希望のある家で子どもたちは誰一人暗い顔をしていないし清潔な衣服を身に着けてボタンも全部きちんとはめられていました。

 

中には礼拝堂があり讃美歌が流れ、孤児特有の暗さは感じられず、教会、学校、職業指導の工場もあるので、18歳で施設を出る頃には翌日から仕事につけるほどの技術を身に着けている青年も見たそうです。

 

美喜さんはこの仕事に神から召されたように感じ

 

将来選ばれて私がこの仕事に入ることを許されたら、必ずこの明るいホームを日本に延長させよう

と心に固く誓い、このホームで週に一度奉仕活動をしました。

 

イギリスで学んだことは『ドクターバナードスホーム』に通うことと聖ジョーンアートスクールであの有名な女優エレン・テリーの姪のエマヌエル・テリーのドラマチッククラスで絵を続けて勉強したことで、だんだんとこの世の華やかな生活から心を離し、ただただ祈りの中に将来の日本における『ドクターバナードスホーム』のやり方を考えては青写真を頭の中に描く日々となり、あっという間に3年目にはパリへの転任になりました。

パリの生活:ローランサンに学ぶ

パリでは20世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家であるローランサンに学びました。彼女の自由で型破りで気まぐれな性格の中に優れた色彩感から勉強し、美喜さんはサロンに入選してパリでの華やかな思い出を刻んだようです。

 

また女優のジョセフィン・ベーカーとも親交を持ち、日本人の為に色々援助をしてくれたりフランスの有名な芸術家との縁をつなげてくれたそうです。また。ノーベル賞のノーベル氏、香水のコティ氏などといった類の無い教養を身につけ、話題も豊富な社交家の人たちと過ごしたことはのちにエリザベスサンダーズホームを運営していく上で苦しい時や悲しいときに力づけてくれる思い出となったと懐古しています。

夏季劇団:地方を回って施設に寄付

二年半のパリ生活からニューヨークへの転任となり、ヨーロッパとは違う環境になじんできたころ、12人くらいの素人のグループであるサマーシアター(夏季劇団)を組織してニューイングランド(メイン州、バーモント州、ニュー ハンプシャー州、マサチューセッツ州、コネチカット州、ロード アイランド州)の行く先々で出た利益をその地の施設に寄付をしたことを大切な思い出としています。

 

またニューヨーク五番街の聖トーマス教会で日本部の委員長に選ばれてニューヨーク各所の教会に講演に行き、宗教を通じてアメリカという国を見ることができたことが美喜さんを幸せな気持ちにし、その時の知人がのちにエリザベスサンダーズホームを創立、運営するときの支持者となってくださったそうです。

 

 

美喜さんの履歴を拝見するとアメリカに限らずヨーロッパや、南米、北京など各地で生活をし、心と心を通じ合わせることで国外に離れても一生のかけがえのない大切な人たちになるのは真実だと思いますね。
赴任中は全くエリザベスサンダーズホームの創立を考えていないので、その国を離れ、戦争があり敵国となった場所もありながらも何年も経過したのち、決意したことを応援してくれるというのは本当に善き関係なのだと思います。

ジョセフィンベーカーの事:見返す意地に感激

パリでとても親しくしてくれたジョセフィンベーカーがジーグフェルド・フォリーズと契約してニューヨークに来ました。

 

その際に、アメリカ人のタクシー運転手、ホテル、アパートの管理人、共演者等すべての場所からひどい差別を受け、そばにいる美喜さんの方が怒りに震えることもあり、当の本人のジョセフィンベーカーは耐えていたそうです。しかし、舞台のフィナーレ時に出演者が並ぶ前にジョセフィンベーカーは帰ってくれと言われたことで

 

白い皮膚の下に黒い心がある、私の黒い皮膚の下には白い心がある!

と舞台に飛び上がって叫んだそうです。この時に美喜さんは美しく素晴らしい彼女の姿にとても感動したそうです。美喜さんが日本に帰国した直後に契約解除してベーカー一族みんなをフランスに呼び寄せて帰化したそうです。

 

彼女の意地は素晴らしかった。見返してやるという意地を私はそのまま教えられて今の仕事(エリザベスサンダーズホーム等の社会活動)も今日まで信仰半分・意地半分でやり遂げてきたのです。

と振り返っていました。ニューヨーク赴任は3年間でした。

澤田美喜記念館とエリザベスサンダーズホームについて

澤田美喜さんは、鳥取県岩美郡岩美町浦富出身の外交官であり初代国連大使の澤田廉三さんの妻で、 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で誕生しました。

 

ご祖父様である三菱財閥創始者の岩崎彌太郎のお母様である和さんと妻の勢さんから一字ずつ取り、美喜と命名されたそうです。

 

美喜さんは聖書に興味を持ちこっそり勉強してはキリスト教を信仰していましたが岩崎家の宗教は真言宗でした。1922年に岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗します。

 

 

ちなみに、妹・綾子さんは福澤諭吉の孫である堅次さんと結婚されています。

澤田美喜さんは社会実業家としてエリザベスサンダーズホームの創立や聖ステパノ学園の創立をし、別荘地(臨海学校の場)として岩美町熊井浜にある鴎鳴荘を利用されていた縁から、卒業生が澤田美喜さんの墓参りに鳥取県岩美郡岩美町浦富にお墓参りに来られます。

 

また以前、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。また澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。

 

油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。

エリザベスサンダーズホームとは?

澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を設立しました。

澤田美喜記念館とは?

神奈川県中郡大磯町にある資料館で、GIベビー支援のためエリザベス・サンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校を創設した社会事業家・澤田美喜さんの収集した隠れキリシタン資料が保管されています。美喜さんは、児童養護施設エリザベス・サンダースホーム運営のかたわら、日本各地から隠れキリシタンに関する貴重な資料874点を収集していました。そのうちの約3分の1の資料が澤田美喜記念館に展示されています。またこの記念館は聖ステパノ学園(サンダースホーム)の敷地にあり、1階が展示室と受付、2階が礼拝堂となっていて庭には鐘楼があります

エリザべス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館所在地
神奈川県中郡大磯町大磯1152番地