新井三嶋谷墳丘墓 ( にいみしまだにふんきゅうぼ )は弥生時代後期初頭に築かれた方形貼石墳丘墓で、墳丘墓としては国内最大級の規模です。
島根県や鳥取西部では四隅突出型墳丘墓が知られていますが、岩美町が位置する鳥取県東部では方形貼石墳丘墓が築かれその中でも最も古くて大型のものがこの三嶋谷1号墳丘墓で、大きな勢力を持つ豪族の存在だけでなく、沢山の人々の暮らしがあったことがうかがえます。
墳丘墓は蒲生川中流の左岸、北西方向に伸びる低丘陵の先端部に作られていて、当時墳丘墓の前にはラグーン(潟湖)もしくは低湿地が広がっていたと推定されています。また、墳丘裾部には約12万年前の海岸線を示す穿孔貝(せんこうがい)の痕跡(ニオガイの残した生痕)が残っていて地質学的にも貴重な場所とされています。
〒681-0062 鳥取県岩美郡岩美町恩志
平成11年度から岩美南小学校建設による緊急発掘調査を行ったところ、 縄文から中世にかけての遺構が発見され、平成23年11月25日に鳥取県指定史跡に登録されました。
1号墳丘墓は、弥生時代後期初頭(約2000年前)に造られた初源期の墳丘墓で南北約26メートル、東西約18メートル、高さ最大約3メートルの方形貼石墳丘墓で、盛り土斜面には浦富海岸、蒲生川流域でみられる花こう岩、安山岩の円礫や角礫がびっしりと貼られています。角の取れた丸い石で大きさは拳大から人の頭の大きさくらいです。海岸から石を運んだ人々は何を想いながら運んだのでしょうか?
頂部には3基の埋葬施設がありますが、第一被葬者の墓壙(ぼこう:墓穴)は大型で5.6×5.3mの方形をしていて、木棺陥没抗に溜まった土とみられる黒褐色土層が2つ並列していることから2体が同時に埋葬されたと考えられ、その他の2基と併せて少なくとも4人-6人の埋葬があったと考えられています。またこの黒褐色土層からは破砕された壺・高坏・器台など土器のかけらも見つかっていてお墓の上で土器を砕いてばらまく祭祀を行った跡も確認されています。
その隣にある2号墳丘墓は、一辺推定約11メートルの方形墓で組み合わせ式木棺2基の埋蔵施設が確認されていますが石は貼られていません。
新井三嶋谷墳丘墓は他の方形貼石墳丘墓とは違って方形の隅部へ続く石列があったり、墳丘の上下で石の大きさや梁型を変えたりと石の貼り方に特徴があります。また、同時に2つの棺を埋葬しているのは弥生時代のお墓ではここ新井三嶋谷墳丘墓だけです!
墳丘墓は木棺の内部を調査しないまま墳丘全体を土で覆い、石を貼って発掘時に近い形に復元したのでどのような棺が埋められていたかなどの詳細は不明ですが、未来の発掘調査で詳しい王墓の実態がつかめる可能性を遺しています。古墳は現世の人々に色んな事を伝えてくれる宝物ですね
昔の人のお墓は古墳と呼ばれて前方後円墳などが有名ですね。墳丘墓も昔の人のお墓に変わりはありませんが、弥生時代に作られた区別として墳丘墓と呼んでいます。
人々が食物を得る方法が縄文時代の狩りや採集から稲作へ移った時代で稲作と共に金属器も伝わって銅鐸を中心とした青銅器や鉄の道具が使われ始めました。この稲作により豊作不作、人々の身分の差をもたらし力のあるムラは弱いムラをしたがえ、クニという大きな集団になり、クニをまとめる人物が王のような存在になってきました。このクニが国になっていくのが次の時代、古墳時代です。
岩美町では古墳時代の高野坂古墳公園(町史跡)、小畑三号墳・一号墳(穴観音)町保護文化財も見学できます。