山陰の麒麟児という異名を持つ山中幸盛(鹿之助)、名言「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話がある彼の生涯には岩美町とのかかわりもありました。
山中幸盛(やまなか ゆきもり:別名 鹿之介、鹿介、鹿之助)は、戦国時代の武将で、尼子家(あまごけ)に仕えた人物です。尼子家は、出雲国(現在の島根県)を中心に勢力を持っていた大名家で、尼子晴久(あまご はるひさ)が当主でした。
山中幸盛は病弱な兄に変わって家督を引き継ぎ、尼子晴久の家臣として活躍し、特に「山中鹿介」として知られるようになりました。尼子家再興のために3度の大規模な運動を行いましたが、どちらも成功には至りませんでした。
(でも!鳥取城にほど近い甑山城(こしきやまじょう)に拠点を移した1573年の鳥取のたのも崩れでは毛利軍の武田高信を敗走させ、9月には尼子再興軍による鳥取城の戦いにて高信の居城・鳥取城を攻略しました)、その時、城主となった山名豊国が毛利側に寝返って1ヶ月程でまた奪還されるのですが・・・・
第一次尼子家再興運動は、1568年に始まりました。幸盛は22歳で月山富田城を追われたあと、京都で浪人生活を送っていましたが、尼子家の旧家臣たちと共に、尼子誠久の五男である僧侶であった尼子勝久を担ぎ、月山富田城の奪還を目指して1569年に挙兵しました。出雲国へ侵攻し、末次城を拠点に勢力を拡大しました。しかし、1571年には毛利軍によって最後の拠点である新山城が陥落し、尼子勝久は隠岐へ逃れました。末吉城に籠もり戦っていた幸盛も毛利軍・吉川元春に捕らえられましたが、隙を見て脱出に成功しました。(尼子再興軍の雲州侵攻・月山富田城の戦い・原手郡の戦い・美保関の合戦・布部山の戦い(ふべやまのたたかい))
第二次尼子家再興運動は、1572年から再開です。幽閉された尾高城から脱出した幸盛は隠岐に逃れ、1572年にまた本州に戻り、但馬国に潜伏しながらゲリラ的に数々の攻防を重ねつつ、尼子勝久と共に再起を図ります。1573年に、岩美町の桐山城を拠点とし、尼子再興のために甑山城(こしきやまじょう)の戦い・鳥取のたのも崩れや尼子再興軍による鳥取城の戦い(1573年)など尼子家再興のために足掛かりを築く様々な活動を行いました。
そのころ山中幸盛が桐山城下の荒砂神社に100本の矢を奉納と神社の記録に残っており、荒砂神社は、尼子再興軍の戦勝祈願を行う場としても利用され、現在も荒砂神社にはその時の矢が残されており、2019年には氏子によって額に入れ奉納されました。山中幸盛の忠義心と武勇を今に伝える貴重な遺産となっています。
荒砂神社の記事に写真を掲載しているので併せてお読みください
但馬山名氏の支援の消失や1575年に吉川元春と小早川隆景らの攻撃により徐々に孤立化していき1576年5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡国から撤退したことで失敗に終わりました…
第三次尼子家再興運動は、1576年から始まりました。幸盛は毛利氏に仕えることを拒否し、尼子家の再興を胸に秘め、明智光秀の仲介で織田信長の後ろ盾を得て、軍資金と多数の兵を預かり明智光秀の傘下に入りました。1578年、羽柴秀吉が毛利方の上月城を落とすと、幸盛は尼子勝久と共に入城を許され、上月城を拠点として再興運動を本格化しましたが、毛利軍の30000人の大軍に包囲され、再興軍は孤立無援となり降伏を余儀なくされました。勝久やその一族は自刃し、幸盛も捕らえられ輸送中に吉川元春(毛利元就の次男)に暗殺されました。
この時、上月城の救援を諦めて退却する際に秀吉が幸盛を見捨てることを惜しみ、悔いていたことを考慮すると、有能な人物だったことがうかがえますね。
山中幸盛の3つにわけた再興運動は、いずれも毛利軍の強力な抵抗によって挫折しましたが彼は尼子家のために数々の戦で活躍し、その勇猛さと武勇伝で名を馳せました。
山中幸盛と尼子家の関係は、主君と家臣という形で非常に強固であり、彼の忠義心と武勇は尼子家の歴史に大きな足跡を残しています。また幸盛の妻は亀井秀綱の娘で、亀井秀綱の次女は山中鹿之助の養女となり、尼子家臣の「湯新十郎」(ゆしんじゅうろう:のちの亀井茲矩)に嫁ぎました。亀井茲矩は鹿野藩初代藩主です。
「湯新十郎」(ゆしんじゅうろう:のちの亀井茲矩)は、桐山城にこもっていた時に、幸盛を訪ね、尼子再興を誓いあったそうです。
幸盛の子孫である鴻池直文は鴻池財閥の始祖とされている人物で、子孫だということを隠していました。直文は清酒の製造に成功し、醸造業や海運業を手掛け、大財閥である鴻池家の礎となりました。
個人的な感想ですが、山中鹿之助の尼子家の再興に掛ける情熱、誓ったことを曲げない強い意志、しんがりになって勝久の命を護り逃がすこと、ずっと再興の機会を伺いながら行動してきたこと(ここでは尼子家への忠誠心といわれるが、本人の決めたことを貫く!っという初志貫徹の性分でもあると思う)はそうでありたい、と思うし
現代の仕事や人間関係の中で似たようなことも経験し共感する部分もあります。
山中幸盛(鹿之助)を偲び、MIDの会・いわみガイドクラブと共に例年11月には桐山登山イベントを開催していました。桐山城があった桐山の頂上にあがり、山中幸盛(鹿之助)がどんな気持ちでこの風景を眺めていたのかなどなど想いを馳せ、参道の整備や草刈りなどをしたのちに、下山してBBQをして情報交換など行っておりました。
出来る限り開催を目指していましたが、いわし山ルートの大階段の傷みが大きく、危険と判断したため令和6年度以降中止となっています。