澤田美喜(社会事業家)1.誕生~学生時代

澤田美喜(社会事業家)1.誕生~学生時代

エリザベスサンダーズホーム創始者の澤田美喜誕生~学生時代までの解説をします

澤田美喜さんの功績を知って歴史を学ぼう

澤田美喜さんは、鳥取県岩美郡岩美町浦富出身の外交官であり初代国連大使の澤田廉三さんの妻で、 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で誕生しました。

 

ご祖父様である三菱財閥創始者の岩崎彌太郎のお母様である和さんと妻の勢さんから一字ずつ取り、美喜と命名されたそうです。

 

美喜さんは聖書に興味を持ちこっそり勉強してはキリスト教を信仰していましたが岩崎家の宗教は真言宗でした。1922年に岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗します。

 

 

ちなみに、妹・綾子さんは福澤諭吉の孫である堅次さんと結婚されています。

澤田美喜さんは社会実業家としてエリザベスサンダーズホームの創立や聖ステパノ学園の創立をし、別荘地(臨海学校の場)として岩美町熊井浜にある鴎鳴荘を利用されていた縁から、卒業生が澤田美喜さんの墓参りに鳥取県岩美郡岩美町浦富にお墓参りに来られます。

 

また以前、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。また澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。

 

油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。

エリザベスサンダーズホームとは?

澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を設立しました。

澤田美喜記念館とは?

神奈川県中郡大磯町にある資料館で、GIベビー支援のためエリザベス・サンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校を創設した社会事業家・澤田美喜さんの収集した隠れキリシタン資料が保管されています。美喜さんは、児童養護施設エリザベス・サンダースホーム運営のかたわら、日本各地から隠れキリシタンに関する貴重な資料874点を収集していました。そのうちの約3分の1の資料が澤田美喜記念館に展示されています。またこの記念館は聖ステパノ学園(サンダースホーム)の敷地にあり、1階が展示室と受付、2階が礼拝堂となっていて庭には鐘楼があります

エリザべス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館所在地
神奈川県中郡大磯町大磯1152番地


澤田美喜さんの生い立ちと歴史1.誕生~学生時代

年月 出来事
1901年9月19日 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として誕生
1907年4月 お茶の水東京女子高等師範学校附属幼稚園に入学、以後付属小・中学部へ進学
1916年4月 東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を中退し、日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者である津田梅子らの家庭教師で学習をはじめる
1922年7月 岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗
1923年

廉三さんのアルゼンチン・ブエノスアイレスへの転任に伴い同行
4月おばあ様・喜勢さんが死去
7月長男信一さんがブエノスアイレスで誕生

1924年

8月 次男久雄さん誕生(声楽家・安田祥子さんの夫となる)
10月 夫廉三さん北京に赴任、随行

1925年9月 三男晃さん誕生(洗礼名ステパノ、聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名の由来)
1926年10月 夫廉三さんが外務省本省転任により随伴して日本に帰国
1928年4月 長女恵美子さん誕生
1930年7月 夫廉三さんがロンドンに赴任、となり随行する
1931年秋 孤児院ドクター・バーナードス・ホームを訪問し、院長の言葉に感銘を受け週に一回奉仕活動を始める
1932年 春 歌手ジョセフィン・ベーカーと知り合い、以後交友を深め、良き理解者として活動を支援していく 10月 夫廉三さんがパリに赴任となり随行する。また、画家マリー・ローランサンの弟子となる。
1935年 夫廉三さんの米国・ニューヨークへの転任に伴い随行する
1936年2月 日本に 帰国
1939年 日系2世留学生を受け入れる外務省施設「敝之館(へいしかん)」「瑞穂館」の設立に伴い、瑞穂館の応援団長となり、野球チームのマネージャーにもなる
1945年 海軍志願兵だった三男・晃さんがインドシナ沖で戦死。終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。
1946年

10月 エリザベス・サンダース女史が日本聖公会社会事業に$170を遺贈 のちにホームの名の由来となる
11月 遺棄された嬰児が電車の棚から膝に落ちてきて、お母様親の疑いがかけられ、戦争国際児救済を決心

1947年

G2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜さんは誕生した子供の育児指導をする。
10月 混血乳幼児収容施設発起人会が聖路加国際病院にて開催され、日本聖公会社会事業に$170を遺贈したエリザベスサンダーズ女史の名前からエリザベス・サンダース・ホームと命名。

1948年2月 社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム創立。理事長兼園長に就任したが進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏状態だった。
1949年50年 ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行い、この頃ニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち、美喜さんおよび長女恵美子さんと親しい友人になる。グレースは、モナコ公妃となったあとも美喜さんの活動の良き理解者として支援する。
1953年59年 ホームの小学校と中学校として学校法人聖ステパノ学園を創立する。
1962年 ブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し孤児院の卒園生が数多く移住する。
1970年12月8日 夫・廉三さんが死去。
1980年5月12日 スペインのマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死
1988年4月 神奈川県中郡大磯町に澤田美喜記念館が開館
澤田美喜さんの私の履歴書の要約
誕生:男よりも元気な産声

お母様は年子で男の子を三人産んで岩崎家では少し華やかな友禅のいろどりを心ひそかに望んでいた人も多かったようです。明治34年9月19日明け方の5時、『また男の子だったら・・・』という周りの心配を吹き飛ばすように産声を上げたのが美喜さんでした。女の子だという喜びもありながらも、今までのどの男の子よりも大きな産声で、身体も大きかった上に、赤い模様の着物を着ても似合わず、男の子みたいな顔だと老女中の中でも語り継ぐ話となったようです。

多方面の取材や書籍で美喜さんご自身が自分は男みたいだ・男勝り・だなどといわれてきたという表現が多いので、ここでも記載しますが周りがそう思っていたのか、本当に言われたのかは定かではありません。今後も美喜さんのエピソードよりこのような表現は続きます。また時代背景による価値観で現代にそぐわないこともございますがご了承ください

名付け親は大叔お父様の岩崎弥之助さんで大おばあ様の『和』おばあ様の『勢』の一字ずつ取って『美喜』とされ、二人の女性にあやかってもらいたい願いが込められていました。

大おばあ様の美和さんは美喜さんにとっての祖お父様である岩崎弥太郎さんのお母様です

おばあ様の喜勢さんは美喜さんが生まれる前に11歳の娘:照子さんを亡くしていて、その悲しみの気持ちや思いを美喜さんの誕生に移して愛情を注ぎ21日の産褥を過ぎた床上げ以降は、おばあ様の喜勢さんの部屋に引き取られるようになり、授乳の時間だけお母様が呼ばれていたそうです。

 

22歳で結婚するまでおばあ様のもとで育ち、祖お父様たちの土佐生活の話、三菱の事業を興した話を繰り返し繰り返し聞かされて人生観の基礎となったと記されています。

幼年のころ:お父様によくしかられる

おばあ様の行くところにはいつもついていきました。

 

また、お母様方の里の保科家でも三つの祝いの時に老女たちに男の子みたいだと嘆かれた記憶、おばあ様が大切に飼っていた生き物を力任せで傷つけてしまい美喜はもう連れてこなくてもいいと言われたことを大人になっても覚えていました。

 

2年後に妹が産まれますがおとなしい子でままごとや人形遊びを好まない美喜さんは3人の兄たちと遊ぶことが多く、大弓や柔道の相手もこなし、稽古台としてポンポンひたすら投げられているように柔道の先生に命じられ、投げられているうちにいつの間にか技を覚えるようになったそうです。

 

お父様はすべてに厳格で、特に長男と美喜さんには厳しく、蔵に入れられるなどのお灸をすえられることもよくありましたが、お父様の説教はいつも短く誠意にあふれた一句で胸にピンときて言い返せなかったそうです。

 

周りからはぜいたくな暮らしだといわれていましたが実際の生活は質素なもので兄のおさがりの筒袖のかすりには女の子だとわかるように赤い袖口、兄のおさがりの一ツ橋付属小学校の金ボタンの外とうも赤いビロードのふちをわずかにつける程度でフードをかぶっているとどう見ても男の子にしか見えないので中性で通ってしまったと記されています。

おばあ様の事:機織りを教えられる

おばあ様は三菱を作り上げた祖お父様弥太郎さんの元に17歳で嫁ぎ、内助の限りを尽くした人なのでモノも時間も無駄にしたくない人で、すべて自分で作り上げてきたという経験から片時もじっとすることができず、夏には冬支度、冬には夏支度、というように年中手も体も動かし働き蜂で、そのおばあ様と一緒にいた美喜さんにもうつってしまってずっと動き回っているのかもしれません。とご自身で語っています。

 

おばあ様は生まれ故郷の土佐から機織り女を呼んでいつも手機をおらせていたそうです

 

自分で蚕を飼い、糸を紡いでそれを織ってはじめて絹の着物を着る資格ができる

といって、今のサンダーズホームのある大磯の別荘で蚕を飼って毛蚕(けご)のはきたてから四眠( 蚕が卵からかえって繭をつくるに至るまで四回脱皮をすること)になり、そしてまぶして繭を作らせて繭を煮て糸を取るところまで教わり、機を織ることも教えられ、白木綿、紺物、麻のカヤを織り、ようやく絹を身に着ける資格を許されたそうです。

 

おばあ様は岩崎家を興した人でありながらもつつましやかで質素な生活をし、おしろいなどの化粧をすることもなく、外の仕事で忙しくなかなか帰宅しない祖お父様がたまに帰ってくるときだけ上から下まで清潔なものを身につけて真っ白い足袋を履くというのが最大の身だしなみだったと懐古されました。

語学:津田梅子先生に英語を習う

美喜さんは5歳の頃から兄と一緒に津田梅子さん(2024年に5000円札の人物画になった方)から英語を教わりました。

 

美喜さんのお母様が華族女学校を卒業後に英語塾で津田先生から英語を学んでいました。当時外国に行きたいと思う夢を果たすことができなかったことを娘に託し、

 

どこの国に行っても語学を一番に勉強をし、すべての話題に入ることができるよう広い常識を持っていなさい

と、外国語教育に力を入れたそうで美喜さんもそれに応えて一生を通じて語学を一生懸命に学び続けました。のちに澤田廉三さんと結婚し、海外赴任に随行したことはお母様の夢も自身の夢も叶ったといっても良いですね。

お茶の水時代:初めてひとりで電車へ

お茶の水と呼ばれた女子師範付属幼稚園、小学校、女学校までエスカレーター式に進学した美喜さんはお父様が留学時代にできた友達が米国大使として来日した際に、大使館に行って習った英語を試すテスト(会話)を繰り返していました。その反面おばあ様が考えている家庭的な料理やお針方面は遠ざかったようです。

 

学校へは女中さんが送迎をしてくれるのですがとある日に忘れ物をして取りに帰らないといけなくなり、初めて一人で電車に乗る時にドキドキしたり、降りるときに車掌さんに切符を渡すのを忘れ、追いかけられてしりもちをつき、その時に何を忘れたのか自体を忘れてしまったことは世界を飛び回るお仕事をされている美喜さんにとって、一生の中の第一の大冒険として記録しています。

一族の注意人物:バテレンなげくおばあ様

兄妹が次々にはしかにかかり美喜さんにもうつってしまい皆で大磯の別荘に隔離されていた時、暑くて寝苦しい夜に隣の部屋で川手さんという看護士さんが小さな声で聖書を読んでいました。

 

岩崎家は仏教徒(真言宗)なので初めて聞いた他宗教の言葉で美喜さんの心は不思議とグイグイと惹かれ翌日、川手さんに見知らぬ宗教のことを聞いてみたところ、川手さんは岩崎家がキリスト教に対して厳しい意見を持っていることを知っているので詳しく教えてくれなかったのです。

 

はしかが治って東京に戻ったら早速、日曜学校に行っている友達に叔お父様さんからお土産でもらったイギリスのバッグと引き換えに聖書を手にしました。しかし、そのことはすぐにおばあ様に見つかってしまいひどく怒られましたが美喜さんはキリスト教に対する探求心がより一層増して、私物の良いものと聖書を交換していました。

 

一方おばあ様は美喜さんが交換した聖書を見つけるたびに焼き捨てました。土佐では真言宗が多い国のため、キリシタンバレテンは毛虫のように忌み嫌われていた宗教なので、お母様の床上げの日から引き取って育てあげた孫が聖書の教えに引き込まれるというのは大変な絶望で

 

ああ、お前がバレテンになるとは先祖様のお墓はどうなるの?私のお墓もおじいさまのお墓も草ボーボーになってしまう

となげいたそうです。

お茶の水中退:毎日家庭教師

おばあ様の嘆きを聞いて以来、美喜さんはキリスト教のことを一切口にしていませんでしたが、仏教の来制に希望を持つというあきらめの教えに対し、キリスト教には現世に天国を延長させる生きた活気を感じていました。

 

おばあ様はご先祖様を大事にし、岩崎家にとってご先祖様は火のような力を持ち、お正月、進学、結婚、出産、など大事な節目にはまずご先祖様に報告するという習慣が美喜さんの中にずっとあり、『先祖』という言葉にとらわれてキリスト教に惹かれるも(のちにキリスト教の廉三さんと結婚するまで)何もできないでいました。

このご先祖様を大事にすることがのちに記載する戦時中のことにもつながります

結局、バレテン(キリスト)に傾倒したり問題を起こす理由は美喜さんと友達と学校が悪いと藩案を下され、お茶の水の女学校を中退することになりましたが、むしろ同じ型の判で押したような人間を作る工場のような学校に行かなくて済むことにほっとしたのです。

 

ところが、ホッとしたのもつかの間、毎日家庭教師で

  • 国語・漢文
  • 日本画
  • お習字
  • お花
  • 油絵
  • 英語
  • お裁縫・ミシン掛け
  • お料理

一日のスケジュールがいっぱいになったのです。妹さんはお料理やお裁縫は得意でよい点数だったそうですが美喜さんはお料理や和裁などが苦手で苦労したとご自身でおっしゃっていました。

愛情ある指導:お父様お母様と書庫にこもる

家庭教師による過密スケジュールで膨大な課題をこなす日々、各分野の専門家による指導に引き込まれていていき、英語のわからない部分をお母様に調べてもらったりお父様と漢詩を読んだり絵をかいたりしたことは、のちに自分の人生を振り返ったときに、宝石で身を飾っていた時や美しい着物を沢山持っていた時でもなく、厳しくても清い生活の中でお父様お母様の愛情ある指導を受けていたころが一番『ああ、あのころはよかった』とおもえた時期だそうです。

 

また一代上の加藤の叔お母様(お父様・久弥さんの妹であり加藤高明さんのご夫人春路さん)も長女として同じように厳しい教育を受けて海外で活躍していたことからか、死ぬまで、絶えず美喜さんのことを励まし続けてくれたそうです。