チ号演習とグラマン戦闘機の岩美駅襲撃

チ号演習とグラマン戦闘機の岩美駅襲撃

第二次世界大戦にて鳥取県で行われたチ号演習と岩美駅のグラマン襲撃の歴史について記載します

第二次世界大戦中の岩美のチ号演習と塩づくり

鳥取県岩美町では第二次世界大戦では大阪や兵庫など比較的都心部の人たちの疎開を受け入れる側でした。昭和20年に入ると空襲が激しくなり各地で被災した人々が増え、生きていくことに困難を抱える非常事態でした。

 

そのことについて岩美町出身の和田麻太郎さんは手記を残しており、記録によると東京、名古屋、大阪での空襲を目の当たりにして危機一髪で逃れ、地元浦富にかえって田畑を耕していましたが、そのころ岩美では町会単位で塩不足のため東浜海岸など、日本海に面する海岸で塩づくりに勤しみ、チ号演習にも参加していました。

 

チ号演習とは、太平洋戦争末期の鳥取県で実施された陸海軍の秘匿作戦で、敵の九州上陸を想定し、「勤労義勇隊」の動員により中国山脈の山腹を中心に横穴や壕を掘りました。その穴や壕は狙撃陣地や一人用の蛸壺、物資弾薬貯蔵庫などに使用する予定で鳥取県内で約560ヶ所ほどあったそうです。しかし、このことは秘匿作戦でもあったことから資料が残されているのはわずかで、のちの聞き取りなど調査によって判明したことが多いようです。その為、体験者個人の語りや伝聞により情報に差異があることはご承知おきください

 

 

チ号演習に参加する町民は岩美駅から鳥取駅等の目的地に向かうため、朝の岩美駅は混雑しています。昭和20年7月30日早朝、グラマン戦闘機数機が岩美駅上空を飛来し、なんと機銃掃射をくわえ3人の死者が出てしまいました。

米艦戦機グラマン岩美駅襲撃の記録

この日、和田さんも当番の日だったようですが、用事があったために集落の皆とは一緒に駅に行かず、別行動をとって5歳の息子さんと出発したそうです。場所は岩美駅より小高い山で500mほど離れたところ、すると、軽飛行機の音が鳴り、なにかと考える間もなく突然頭上で機銃の音が鳴り、近くの山にこだましてものすごい音が響き、自分が狙われいると思って慌てて逃げ隠れたそうです。

 

また、岩美町の元小学校校長の永美喜雄先生の日記には七月三十日晴天、午前六時半過ぎ、編隊らしき飛行機の爆音を耳にするも警戒、警報の発令もない中での爆音だったのでたいして気に留めていなかったようですが、突然、けたたましい銃撃の音を聞き、瞬間的に敵機からの襲撃だと直感し裏庭に出ました。体調不良で寝ていた妻の静子さんも2階の窓から七機の飛行機が飛び去るのを見たそうです。

 

早朝の汽車は通勤やチ号演習に向かう義勇隊の人々で混雑している中、大惨事には至らなかったとはいえ死傷者は数名、死亡者は線路工夫だった横町の男性、保線工夫詰所の焼失、等の被害を受けてしまいました。

 

永美さんは自宅にいたため岩美駅にいたわけではないので細かい実情は知らないが、レールに銃撃の跡が残っていたという証言を聞いた記憶があることと但馬方面から鳥取に向かう方向に飛んでいたとの事をのちに記録していました。

 

さらに福寿さんの記録では、死者3名、負傷者1名の犠牲者を出し、駅構造物(保線区詰所)、たまたま停車中の貨物列車に損害を与えたと残されています。

この停止中の貨物列車と、プラットフォーム、詰所が並列に並んでいて、貨物列車の輸送活動を防止するための襲撃だったのではないかという憶測する人もいたそうです。

犠牲者は岩美町出身の保線区2名、福部村出身の臨時女子職員1名で、保線区は即死、女子職員は両足に負傷をし岩井病院まで運ばれましたが助かりませんでした。自転車もほとんど見られない時代、リアカーのようなものも簡単に見つかったとは考えられない戦況下、おそらく搬送まで時間もかかったし現代と比べて医療器具も設備も不十分な状況だと想定されてます。

 

負傷者は貨物列車の機関手で幸い、健全に生活を送ることができているらしく、この記録は実際に目にしたこと、犠牲者の親類がたまたま親しい隣人だったこと等から37年の時を越えて伝聞となったとしても正確に残っている記憶であるとの事です。

 

福寿さんはこの時、岩美駅から200mほど離れた線路を歩いていたそうです(当時、自転車等が無い時代、東浜駅も大岩駅もなく、駅に向かう近道が線路だったことからみな線路を歩いて駅に向かっていたようです)

 

相谷のなだらかな稜線を突っ切って急降下する数機の影が近づいてきたときに、『ああ、こんなところまでやってきたのか!!』と思いとっさに線路の土堤に伏すよう声を掛け合ったようです。チ号演習という正体不明の作業のために村に残っていた働き手はほとんど演習に動員されていたため線路は当然ながら混雑していたとの締めくくり。この締めは深く考えさせられますね。

 

このことは誰が決めたでもなく米艦戦機グラマン岩美駅襲撃というようになったとのこと。

 

 

※それぞれの記録にある・保線工夫・保線区は呼び方が違うだけで鉄道の線路を新設・増設したり、補修・保全したりする仕事に従事する人のことを指します。

 

ちなみに、岩美町浦富出身の初代国連大使の澤田廉三さんの妻であるエリザベスサンダースホームの創始者である澤田美喜さんも岩美で疎開生活を送り塩づくりとチ号演習とおもわれる掘削作業に参加していたことを残されています。(手記にはトンネル掘りと記載、チ号演習の文字は無し)

「ち号演習」に関する公文書は、戦時体制に関する公文書の焼却指令が発せられ忠実に実行したため情報がほぼ残っていない為、体験者の声というのは貴重だとおもいます。

 

岩美駅が第二次世界大戦で襲撃があったことを知っている現代人はどれくらいいらっしゃるでしょうか?小さな田舎町の出来事、教科書に載ることもないでしょう。自転車も思うようにない中、負傷者を搬送すること自体に苦労し、医療器具も乏しく、食べ物も不足し…と頭を巡らせると胸がつまる思いになります。

 

また、戦地に向かった町民もいて祖父、曾祖父、その兄弟、先祖、をたどると戦争を体験した身内や親類がいると思います。疎開地として都心部の子供たちを受け入れて少ない食糧をわけたり、衣服を与えたりと疎開してきた子どもたちの為に温かく迎え支援したことが、戦争遂行の手助けになり戦争を長期化させる行為だと判断されるという何とも切ないこともあったそうです。

 

今の平和な時代だからこそ言えることなのかもしれませんが、不安な子供たちに愛情込めて親切にしたことが戦犯扱いになるのは理不尽すぎて悲しい!!!でも、、、、立ち位置によりごもっともな面もあり…でもでも子どもに罪は無いしみんな苦しい…支え合って生き延びたいのに…そんな中生き抜いてきた皆さま、命をつないできたこと大事に受け止めています。

 

補足になりますが女優であり元参議院議長の扇千景さんは小学校4年生のとき、現在の神戸市長田区から鳥取県岩美町の岩井温泉の花屋旅館に疎開していたそうです。いつもご飯がわずかな大豆ごはん、おやつもわずかな煎り大豆ばかりでお腹を空かせてイナゴを食べたり、たまに大人からもらうおかきなどをみんなで分けた思い出、実家がなくなったことを聞かされたことを語られています。

 

いわみのあしあとでは岩美町から戦地に向かった人の体験談、戦地に向かった子供・夫・父を待っていた家族の事なども記録したいと思います。