仙龍寺・清正公堂

仙龍寺・清正公堂

鳥取県岩美町浦富の仙龍寺と清正公さんについて記載します

仙龍寺と清正公「セイショコさん」について

もともとは鳥取 妙要寺(法華宗)末寺で妙躰寺といわれてましたが、鵜殿家の願いで享保11年(1726)に仙龍寺と改称し先祖の位牌を収めたとされています。明治3年に廃仏毀釈で妙要寺に併合、その後住民の要望により浦富教会として復活し、昭和63年泉仙龍寺として復活したお寺です。

 

他教とわけている法華経の寺院ですが江戸時代の神仏習合からか清正公堂には熱心な日蓮宗の法華経信者の清正公(加藤清正)を祀る神社があり石鳥居、キツネが左右を守っています。清正公信仰(せいしょうこうしんこう)の成り立ちは、祟り説含む2つの説がありますが断定できるものはありません。この加藤清正(かとう きよまさ)の没後慶長16年(1611年)、新田開発や治水事業などの功績によって民衆から崇敬された彼を祀って所願成就を願う信仰ともされ、具体例では大工と戦士のための神様と称されて土木や建築関係の人々から強く才能を讃えられています。

 

〒681-0003 鳥取県岩美郡岩美町浦富

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後国熊本藩初代藩主、通称は虎之助(とらのすけ)
廃仏毀釈とは明治新政府の神道国教化政策に依拠しておこなわれた仏教排斥運動で仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味。仏堂・仏像・仏具・経巻などにたいして各地で起こった破壊行為のことです

加藤清正と鳥取の関係について

加藤清正は幼い頃に父が病死し、生活が苦しかったため、母伊都が秀吉の母なか、(または妻おね)と親戚関係にあったことから豊臣秀吉に託し妻のおねに食事などのお世話を受けていました。

 

天正4年、15歳で元服(男子が成人になったことを示す儀式)するのですが実はその1年前の天正3年(1575)5月の長篠の戦いで、秀吉に従軍を懇願するもまだ若すぎるとして出陣を許されなかったのにかかわらず、こっそり軍に参加し、いわゆる密行出陣で武田軍を負傷させ成果をあげ秀吉も褒めていました。

 

ただ、これを正式な初陣とは認定せず、記録上の初陣は20歳の天正9年(1581)、羽柴秀吉が2万人の大軍を率いて毛利方の吉川経家(きっかわつねいえ)が城主であった 鳥取城を攻撃し兵糧攻めにした時とされているそうです。「鳥取城渇え殺し」とも言われたあの戦いです。鳥取城近辺の風景や出来事は清正公「セイショコさん」にとってどのような記憶として刻まれていたのでしょうか…

 

また、上記にも軽く記載しましたが加藤清正は母親が熱心な日蓮宗の法華経信者ということもあり、母・伊都が信仰する姿を見ながら、日蓮宗「妙延寺」(みょうえんじ:愛知県津島市)にて法華経と学問を教わっていました。

 

なるほど…だから仙龍寺(日蓮宗)に清正公(セイショコ)さんが祀られているのだなあっと腑に落ちました。明治維新の神仏分離の際に加藤神社が創建されたことにより、神道による信仰も行われましたが、日清戦争・日露戦争の際に武運長久の軍神としての清正像が再構築され、太平洋戦争敗戦後、軍神とされた加藤清正は軍国主義の象徴とみなされ、清正公信仰は衰退を迎えることになったそうです。

 

ただ、軍神としてではなく、生前からの熊本藩の初代藩主であり熊本城を築いた加藤清正の土木や農業の開拓に関する功績に対しての崇拝は今でも根強く、地域の人に愛されています。