牛ケ峯神社の創立は朱鳥3年(689年)6月18日に伊勢内宮より勧請され、
の二国六か村の氏神とされていました。牛ケ峯神社は但馬、因幡の牛の守護神でもあり、日本神話では五穀をつかさどる神、食物の神とされています。
牛ヶ峰山は扇ノ山の北にあり鳥越火砕岩層からなる独立峰でふるさと兵庫100山の一座です。かつてはこの山を越えて両国を往来する「牛ヶ峰越」という峠道がありましたが、現在は兵庫県側だけに登山道があり実際に蒲生トンネルを抜けて兵庫県側から牛ケ峯神社にお参りをしたあと頂上に登頂したら標高は712.8mと記されていました。
兵庫県美方郡新温泉町越坂1095
牛ケ峰山は以前は金鳥山といわれていましたが、遠く(岩井方面)から見た風景が、牛の寝ている姿に似ているところから『牛ケ峰山』と呼ばれるようになったそうです。
時折キツイ登り箇所はありましたが、ネットで調べると藪山と書いていたので覚悟した分、トレイルはしっかりしていたので登りやすかったです。(想像よりは…という意味で…山は山ですので個人差はあります。)
牛ヶ峰山では9世紀半ばに但馬側の山が半分崩れ、大半が滅却した後に再建し反映しましたが、度々兵士の反乱により焼却したそうです。(金烏山牛峯寺も最期は自ら火を放ち、名物であった大鐘の焼失とともに寺は滅亡しました)
その後、源頼朝が河原山興福寺という一宇を建立して武運長久を祈り、室町時代初期には足利尊氏も参拝し、寄付もあり42カ寺の大霊場となり長い間発展したそうですが、羽柴秀吉が鳥取征伐の際に寺領奉還を命じた際に僧たちがそれを受け入れず敵対したために攻略され打ち壊されてしまったそうです。
その後、宝永4年(1707年)に但馬と因幡の両氏子により再び社殿が造営されました。(棟札が原因で争いになる…)享保年間では遷宮でももめ、天明年間には大鐘の修繕費について但馬は用意できるが因幡は出来ない、じゃあどうする?などといったこともあり長くもめたそうです。
遷宮(せんぐう)とは、神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すこと
明治に入り、神仏分離が行われて牛ヶ峰神社となり、但馬は但馬牛、因幡は因幡牛とそれぞれ牛の産地であり、牛の守護神として両国の畜産農家の信仰を集めました。
祭礼日には(現在7月18日)牛を飼っている家は必ず一人以上は参拝し、本社でお札を受けて帰り、木札はお守りとして牛の首につるし
神の札は牛舎の柱に貼り付けるのが常で、参道に生える熊笹を数本刈り取り、御祈祷を受けて持ち帰りそのササを牛に食べさせると雌牛が生まれると言われ今でもこの風習は受け継がれているようです。
実際に参道を登っている途中、若いササを見受けました!
鳥取県側の山麓の岩美町鳥越地区には、地元の氏神として蔵王権現が鎮座しています。
今は登山する人も少なく、丑年の時に若干登山者が増える程度ですが、かつて山頂の寺社は「山陰三大権現」のひとつとされるほど栄えていたそうです。
牛が峰山には大蛇にまつわる民話があり、岩美町・温泉町それぞれにあります。上記の写真は岩美町中央公民館に展示されていました。