この写真は田の中にある三上兵庫頭墓(三上兵庫頭の宝篋印塔)です。但馬国守護山名祐豊の弟とも云われる人物で山名勝豊が居城を二上山城から布施天神山城へと移した後、治安が悪くなったことを悩んだ村人が但馬山名氏に相談し、但馬山名より三上兵庫頭を二上城の城主として呼び寄せたのですが、二上山が山高く不便だということで、道竹城を築いたそうです。
その後、1564年(永禄7年)、因幡守護・山名豊数に道竹城を急襲され、逃げて二上城に向かう途中、このあたりで落馬して討ち死に…という言われもありますが三上豊範ではなく三上経実では?という諸説あるようではっきりしたことを断言して書くことができません。特に歴史などは色んなゆわれもあり、専門家の膨大な研究結果や、歴史好きのマニアックな話もあり真相を理解して伝えるのにはもう少し学習と整理が必要で…教科書に掲載されない岩美のピンポイントでの歴史で知らないことも多くあり、まだまだ学ぶことだらけです・・・