長谷の御屋敷 石垣遺構

長谷の御屋敷 石垣遺構

鳥取県岩美町長谷集落奥にある御屋敷跡の遺構について記載します

御屋敷石垣遺構を知ろう!

鳥取県岩美町長谷集落奥に御屋敷跡の遺構があり、幕末にはここに番所がおかれていました。 今は草に覆われていますが、 以前調査した際の写真を参考に掲載します。築上は中断されたもので垣屋氏の出城、番所、など歴史をたどると色々な言われがあり手法から推測すると江戸時代初期だとされています。

 

因幡誌によると

 

村の奥に四丁西側の山下に一構墟(こうきょ:きょは荒れ果てたの意味)あり、六十七間(約120m)奥行き三十四五間(約63m)なり、今は皆田園となせり。その西角に櫓間の台(城郭内に防御や物見のために建てられた仮設または常設の建築物)と見えて正面六十七間(約12.6m)、奥へ四間(約7.2m)高さ三間あまり(約5.4m)厳重に築城たる切石垣あり、土人(其の地に生まれ住む人)之を御屋敷といふ。此普請半途に主人没落して終に成就せずといひ伝ふ。按するに普請もまて旧き(ふるき)ものとも見えず。垣屋が別荘なるべし、石田か覧に滅亡して事いたさりしならむか

とあり、垣屋氏は但馬の名族で鳥取城攻めの戦功により巨濃郡(現在の岩美町)一万石の領主になりましたが、二代目の垣屋恒総の時、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため没落し、普請中途で終わったらしいとのことです。

 

谷の奥に琴引城があり、但馬の押さえとしたといわれるからこれと関係したものだと考えられています。恒総のお墓は高野山にありますが、宇治長安寺に遺髪を葬った宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、浦富の桐山山麓東側下には垣屋氏の居館跡と伝えている場所があります。これらの遺蹟(いせき)は浦富にある垣屋初代光成(宗管)の五輪塔等と併せ考えるべきものです。

 

普請とは「普く人に請い(あまねくひとにこい)、力を貸してもらい工事などを進める事」の意味
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、鎌倉時代中期以降に各地で造られた石造りの供養塔で、お寺などでよく見られ、方形の階段状の基壇、方形の塔身、笠、屋頂に相輪を載せた塔形で、塔身の四面に古くは梵字が刻まれています。笠の隅飾突起が直立している宝篋印塔ほど古く、反り返っている宝篋印塔ほど時代が新しくなります

この付近では須恵器片など古墳時代の遺物も見つかるなど歴史深い場所です。

 

須恵器片(すえきへん)は、古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器(炻器)である須恵器(すえき)の破片で、青灰色で硬く、焼成温度は1100℃前後です。
須恵器は朝鮮半島から5世紀初頭に伝わった土器で、貯蔵や供膳などに使われていました。焼き物の分類では「陶質土器」に区分され、。同時期の煮炊きや食器などに使用する土師器とは色と質で区別できますが、一部中間的なものもあります。