澤田美喜(社会事業家)3.帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年

澤田美喜(社会事業家)3.帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年

エリザベスサンダーズホーム創始者の澤田美喜さんの帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年までの解説をします

澤田美喜さんの生い立ちと歴史:帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年

澤田美喜さんの歴史について、澤田美喜さんの生い立ちと歴史:誕生~学生時代 、2.縁談~見合い~挙式~結婚後の生活の続きです。

多方面の取材や書籍で美喜さんご自身が自分は男みたいだ・男勝り・だなどといわれてきたという表現が多いので、ここでも記載しますが周りがそう思っていたのか、本当に言われたのかは定かではありません。今後も美喜さんのエピソードよりこのような表現は続きます。また時代背景による価値観で現代にそぐわないこともございますがご了承ください

帰国→疎開:お母様が狭心症・三児は出征・三男戦死

3年間のニューヨーク生活を終え、帰国すると日本も随分変わっていました。昭和16年暮れに太平洋戦争がはじまり12月8日の朝、廉三さんあてに電話が鳴り、短い言葉を聞いただけで美喜さんも戦争が始まったことを察し目の前が真っ暗になりました。

 

それからは日本軍の武勲が並べられたニュースばかり聞かされる月日が流れ、これでいいのかしら?と思い悩んでいたそうです。厳しい戦況になる直前にお母様が狭心症で入院して他界し悲しみに暮れていましたが、ついで3人の男の子が戦争(学徒出陣・英語を役立て海軍の軍令部・特攻隊)に出かけていきました。孫の出征を知らず毎夜の空襲の不安も知らずに他界したお母様は幸せだったのだと思い直したそうです。

 

一人になったお父様のことを兄妹でかわるがわる様子を見に行ってましたがまもなく疎開先の大磯の別荘が陸軍にとられてしまったので、一番下の子である娘を連れて廉三さんの故郷である鳥取県岩美町に疎開しました。

 

お父様にも疎開するように皆で何度も何度も説得しましたが

 

岩崎家の家長として一人でも東京に残っている親族がいるのを見ながら俺が疎開したらご先祖様に対し何の言い訳がたつか!

とガンとして動かなかったようです。まさに冒頭で記載した岩崎家の真言宗の教えでご先祖様を大事にすることをおばあ様から受け継いでいる話がつながりますね。

 

終戦の年、1945年の1月に三男の晃さんが戦死しました(公報は2年後でしたがその日の夜には親の直感なのか戦死を感じたそうです)。世界中のお母様たちが同じ悲しみを味わっているのだと思えば私一人が悲しんでいるべきではないと心を励まし耐えていったと告白しています。

 

余談:戦争の悲しみ、痛み、怒り、様々な葛藤は個人個人それぞれあるのに全体を見たら自分だけではないからっと心を強く持つ糧になることもあれど、逆に個人的な想いを口に出せなかったことがのちにもずっと続き心に不調をきたした人もいることをこの言葉で理解が深まりました。

終戦:お父様は戦犯で財産没収、進駐軍との同居

鳥取県岩美町での疎開生活では疎開婦人会会長という名をもらい2000人ほどいる疎開組の女性をまとめていました。厳しい配給と自給自足、勤労奉仕の毎日で、松根油を取ったり海水で荒塩をつくったり鳥取市内に近い山の中腹でトンネルを掘っていました。この経験は美喜さんにとって尊いものを味わえたと語っています。

 

トンネルの余談として峰の裏の方からも掘っている人がいて貫通する予定でしたがどこかで方向がずれてつながらず、終戦後、しばらくしてその穴がどうなったか見に行ったら地域の方のお芋の貯蔵所になっていたそうです。

 

こうして岩美で終戦を迎え、特攻隊として出征した次男は出動する2週間前に終戦したので毛布とお米一斗(15kg)を抱えて帰ってきました。

 

たった一人で頑張っていたお父様のいる東京へ戻りましたが、敗戦国日本に戦勝国の進駐が始まりそれから後の数年は日本にとってはもちろんのこと、岩崎家にとっても心が痛む、考え難い状況が続きました。

 

岩崎家では無益の折衝を行わない、平和を愛する気持ちはだれにも負けないというお父様が戦犯者としてすべての財産を没収され、住居は折半で進駐軍の将校と同居することになったのです。

 

進駐軍が滞在する洋館の方は昼夜問わず電灯をつけっぱなしで夏のような室内温度、石炭を必要以上に焚いてお酒もジャズも耐えず、夜中には庭を駆け回る女性の嬌声が聴こえたり、ピストルの練習の流れ弾が窓ガラスを破って飛び込んでくることもたびたびあったそうです。

 

またお父様が大事に成長を見守っていたオシドリや、トンビの巣立ちをする場所でもバンバンバンっと鳥を射抜く音がしても耳をふさいで目をつぶって悔しがるしかなく、今まで70年間、不義者を出さず清く過ごしてきたこの家がめちゃくちゃに…お父様も美喜さんも敗戦国という悔し涙を流したことも何度かありました。

財産もすべてとられ、家には進駐軍が滞在、しかも静かだった空間が騒々しい毎日となると計り知れない思いをされたのだと感じます。事情を知らない外部ではあらぬ噂を立てられることもあったでしょうし…

混血児(当時使われていましたが現代として戦争国際児と言い換えます)のために:家庭を捨て飛び込む

日本進駐が昭和20年9月15日から始まり翌年21年6月27日にはもう混血児(戦争国際児)の第一子が産まれました。その後、道端や川の中に置き捨てられた幼児たちを見た美喜さんは哀しみ、そして疑問や憤りを感じていたようです。

 

とある日、家族の用事で列車に乗っていた時に美喜さんが座席に座っていると、荷物置き(網棚)から新聞紙に包まれた何かが落ちてきました。中をあらためると亡き子だったのです。周囲の人も駅員も美喜さんのことを疑い怪訝で目で見つめ詰問されたそうです。そう、美喜さんがこの子を産んでどこかに捨てに行くのではないかと疑いがかけられたのです。

 

幸いなことに目撃者の援護もあり美喜さんが犯人ではないことが判明しましたがこの時に耳の中にハッキリと

 

この亡き子の母と思われたのなら、いっそのこと日本中の、私を母として必要としている子供たちのために母になれ

と啓示が聴こえ、この日から美喜さんはエリザベスサンダーズホームの創立と運営に飛び込んだのです。一週間祈り続け考え続け、18年前にイギリスで抱いた献身の決心がようやく実行に移す日が来たのですが、戦後の日本の状況や国民の将来を考えたり、一度引き受けたら一歩も後に引けない状況になる覚悟が必要なので慎重に思慮しました。

 

この事業を終わらせないように継続するのは家庭と仕事の両立は難しいと考え、夫である廉三さんに恐る恐る相談をしたところ承諾を得ることができました。また4人の子供のうち3人(1人は戦死)は全員一人前に成長したので母としても妻としても家庭から解放されたことでこの事業に飛び込むことができたのです。

 

まずはお父様が財産税として物納した大磯の別荘を買い戻すことが仕事でした。別荘を買い戻すための資金を美喜さん個人の名義で借金をして月々返済をしました。(このあたりの話はまた別記事で掘り下げます)
色が黒いから、眼が青いから、という理由で次々と子どもたちが送られてきました。列車の中、駅の待合室、公園、大磯の街の中に置き去りにされる子達、生活苦により一家心中手前で涙ながらに母親が他のみに来た子達、誰一い拒絶することなく受け入れました。

 

子供たちが増えていく一方で収入がおぼつかず、終戦後の財閥解体で岩崎家にはお金もなく、ただただ持っているものを売ってお金を工面しました(学生の頃にこっそり聖書を手に入れるために大事なカバンなどを売ったことが思い起こされますね。)

 

大磯の子供たちに英語やフランス語を教える教室を開講し、家族の生活費としては十分でしたが、ホームの子供たちを食べさせていく収入は到底足りません。ありとあらゆるものを売ってミルク代にする姿をみて実の子供たちを心配させてしまいましたが、美喜さん本人は

 

この世に必要な人間なら国家が守ってくれる、神様が見捨てるはずがない!

という信念を持っていたので心配していなかったそうです。

創立当時:進駐軍ともやりあう

進駐軍からすると戦争国際児の存在は隠したいので、エリザベスサンダーズホームに集中して孤児をまとめるのではなく全国にちりばめてわかりにくくするようにしてしまいたい意思がありました。

 

しかし美喜さんは一度捨てられた子を二度捨てるということは絶対にしない!っと進駐軍の意向を聞き入れないため、あの手この手で美喜さんがホームを投げ出しギブアップするよう、全国にちりばめるよう仕向けてくる事に対し、子どもたちを必ず守る!という意志を貫いたのでした。

 

とはいえ一人になると心も弱くなることもありそのたびにお祈りをしながらおばあ様が幼少期から吹きかけてきたおじい様のこと、三菱の興廃をかけた話を思い起こし、奮起するのでありました。

試練:援助打ち切りの通告

進駐軍の中にはアメリカ生活時の知人がいたり同じ教会の信者もいて、その善意の人がこっそりミルクや古着を届けてくれましたがその善意もCFAに呼ばれてエリザベスサンダーズホームに支援物資を送ることを禁じられたり、軍医の善意も長く続かず子どもたちの医療も満足にできませんでした。

 

さらにアメリカからの寄附も止められ夜中に一人で大声で泣いたり、児童心理研究論文として悪意ある報告書を提出され、アメリカ大聖堂からの寄付を一切禁止する正式通告もされ、当時100人ほどの子供たちを抱えていた美喜さんは立ち上がりました。

 

 

1952年から美喜さんは年に1回3ヶ月ほどアメリカ中を講演で周り、ラジオやテレビ取材なども含め十何年にも渡って募金活動を行い、(うち、ブラジルにも3回ほど訪問)かつて交流のあった現地の人たちは両手を広げて受け入れてくれました。もちろん様々な嘆きもありましたが知人や信者、現地の人の善意の心が美喜さんの心を支えていました。

個人個人の信頼や善意は国の壁を越えますね。

米国行き:混血児(戦争国際児)問題訴え・父の死

第一回目のアメリカ行きはまだ占領中だったのでこの混血児(戦争国際児)問題を訴えに行くことに対してビザが下りないなどのトラブルがありました。

 

お父様はそのころ、キャノン機関に占領された東京の家を売って千葉県の農場へ引きこもりました。先祖を大事にする岩崎家、家を手放すことはお父様にとって大変な心労だと思いましたが、めちゃくちゃになった家の環境を目の当たりにする生活になったためか思いのほか未練なく立ち去ったのです。その後気疲れがドッと出たのか心臓病を患いました。

 

美喜さんは混血児(戦争国際児)問題を訴えて寄付を募る目的以外に戦後に起きている真実の日本の声を伝えたかったのですがお父様に

 

もう何も未練がましくアメリカの批判をするではない、すっかり忘れてしまえ、そして子供たちの事だけをやって来い

というのです。美喜さんは何も言わずに心を痛め苦しんでいたお父様の代弁をふくめ講演で言うつもりだったのに・・・本当にお父様は戦後グッと堪える人でした。お父様の数年の闘病期間、渡米の度に後ろ髪引かれる思いでいると『お前はこの仕事に捧げるんだろ!行け!』『行って来い!』と勇ましく背中を押してくれたそうです。危篤時に航空トラブルの発生で間に合わなかったのですが『仕事の為だ、行け!』と言ってくれたことと離れる前に言葉を交わしてさよならをしたので満足しようと言い聞かせました。

豊かな収穫:亡き父にささぐアマゾン教室

美喜さんの10数年にわたるアメリカ講演旅は様々な苦悩はありながらも善き出会いにも助けられ豊かな収穫を得ました。アメリカでは新しい養子縁組制度ができ、エリザベスサンダーズホームには礼拝堂、幼稚園、小中学校、職業教室や宿舎が建てられました。

 

その間にブラジルには3回渡り、サンパウロ州など24か所の日本人入植地で集めた寄付金でアマゾンに土地を用意し『アマゾン教室』と名付けました。かつてアルゼンチンにいたときにお父様がブラジルの農園を買い現地で仕事と人間を作った事に敬意を持ち、お父様が遺した財産を宝にしてささげてこの地を手に入れ、これを亡きお父様に捧げることにしました。

 

お父様の遺した農園にホームの子供を入れることもできましたが移住して定住することを考えると転々と引っ越すのではなく自分たちの手で開墾するべきだと考えたのでした。

子どもたちの国:自分の手で幸福を

ホームのために買ったアマゾンの原始林は日本のように差別やいじめがなく、誰もが同じように働いて生きていかなければいけない国、そのため、働いた分は必ず返って来るので子供たちも夢を持ちながら築き上げることができます。美喜さんはマンゴー等のフルーツや、ランなどの美しい花を栽培して日本の銀座で綺麗に並んでいるイメージをし、子どもたちが沢山の収穫物や熱帯魚を抱えて里帰りをする姿を想いました。
美喜さんはお金では買えない有事を沢山持ち、みんなエリザベスサンダーズホームの事を応援してくれています。パリで共に過ごしたジョセフィン・ベーカーは妨害に遭いながらも日本で23回公演をして全額ホームに贈ってくれたり養子を迎え入れてくれました。美喜さんはその後、ジョセフィン・ベーカーと暮らす2人の子どもたちに会いにフランスに訪ねた際、お城に住む王子様のような生活をしている姿を見て幸福に満ち溢れたようです。

パール・バック女史:素晴らしい指導と教育

アメリカで出会ったパール・バック女史はホームから十数名の子供を引き取り、2名は自分の元で養女として素晴らしい指導と教育を与え、、十数名は幸福な家庭に養子として入れてくれたそうです。また、小児まひの子供を米国で治療すると連れて行ってくれた上に現地の医師が養子として引き取ってくれたのです。本当に慈悲深い方たちに恵まれているなと思いますね。

 

戦争、そして戦争後に起きた苦々しい出来事、このことを罪の無い子どもたちが背負わなくていいように美喜さんは敷地内に隔離をして幼稚園から小学校、中学校まで建設して義務教育を与えて子供たちの成長を見守りました。両親が揃っている子よりも技能も知能も高く持たせて誇りをもって生きていけるよう厳しく指導をしたこともあります。

 

この隔離は引き離すだけの隔離ではなく、世の中に出たときに押しつぶされないように準備をするための隔離だとおっしゃっています。昭和38年1月に創立15年を迎え、第一期生は10名が難しい受験を乗り越えて16歳の高校生となりました。もちろん色んな子供がいて朗らかな子、問題のある子、スポーツ、芸術、音楽に秀でている子など、それぞれの場所で壁にぶつかった時にもみんなのつっかえ棒になるっと美喜さんは覚悟していました。

おわりに:この世の財物に執着なし

戦後、悪戦苦闘を繰り返しながらホームの設立に至る根源は、戦前ロンドン生活時に金銭では買うことのできない幸福があることを知り心の目を開いたからです。美喜さんの心を幸せにしたのはこの世の財物に執着心を持たなくなったことで、モノを守ろうとし、増やそうとし、これを減らさないようにし、盗まれないようにしようということから解放されたことです。

 

私の頭の中には敗戦の運命の子を父母の有る子供以上に幸せにするということ以外に何もない

と強く想い、また『ワンマンで思うことを言わせて思うがままにふるまわせて下さった方々に深く感謝しています』『この仕事に専心するよう許してくれた主人に感謝しています』と美喜さん自身が述べていました。

澤田美喜記念館とエリザベスサンダーズホームについて

澤田美喜さんは、鳥取県岩美郡岩美町浦富出身の外交官であり初代国連大使の澤田廉三さんの妻で、 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で誕生しました。

 

祖父である三菱財閥創始者の岩崎彌太郎のお母様である和さんと妻の勢さんから一字ずつ取り、美喜と命名されたそうです。

 

美喜さんは聖書に興味を持ちこっそり勉強してはキリスト教を信仰していましたが岩崎家の宗教は真言宗でした。1922年に岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗します。

 

 

ちなみに、妹・綾子さんは福澤諭吉の孫である堅次さんと結婚されています。

澤田美喜さんは社会実業家としてエリザベスサンダーズホームの創立や聖ステパノ学園の創立をし、別荘地(臨海学校の場)として岩美町熊井浜にある鴎鳴荘を利用されていた縁から、卒業生が澤田美喜さんの墓参りに鳥取県岩美郡岩美町浦富にお墓参りに来られます。

 

また以前、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。また澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。

 

油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。

エリザベスサンダーズホームとは?

澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を設立しました。

澤田美喜記念館とは?

神奈川県中郡大磯町にある資料館で、GIベビー支援のためエリザベス・サンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校を創設した社会事業家・澤田美喜さんの収集した隠れキリシタン資料が保管されています。美喜さんは、児童養護施設エリザベス・サンダースホーム運営のかたわら、日本各地から隠れキリシタンに関する貴重な資料874点を収集していました。そのうちの約3分の1の資料が澤田美喜記念館に展示されています。またこの記念館は聖ステパノ学園(サンダースホーム)の敷地にあり、1階が展示室と受付、2階が礼拝堂となっていて庭には鐘楼があります

エリザべス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館所在地
神奈川県中郡大磯町大磯1152番地