鳥取県岩美町と鳥取市の境にある駟馳山は標高314m、様々な歴史や伝説があり岩美町の暮らしを精神的に支えたシンボルでもあります。山陰海岸ジオパークトレイルコースにもなっていて、海沿いの中国自然歩道を海食崖や波食棚、奇岩を眺めながら大谷海岸から岩戸海岸に降りて鳥取砂丘まで歩くコースは登山愛好者にも人気が高いです。
国道178号線沿いの石畳道の登山口から頂上まで登る事もでき、頂上からは鳥取砂丘が一望できます。また、太平洋戦争中に作られたコンクリート造りの防空監視所が残っています。(写真参照)
広葉樹林で覆われていて火山のように見える山の形(姿)周囲に生じた断層と波食によって形成されたもので火山ではないとされています。また新第三紀(2,303万年前から258万年前までの時代)鳥取層群上部層の荒金火砕岩層と駟馳山砂岩泥岩層を基盤に、その上位を鮮新世に流出した流紋岩類が覆っていてその上位を鮮新世(約500万年前から約258万年前までの期間)に流出した流紋岩類が覆っていますが流紋岩がどこから噴出したものかについては、現在のところ不明だそうです。(Wikipedia駟馳山より)
駟馳山峠の千匹狼という伝説があり、駟馳山峠から十六本松(鳥取砂丘西端の集落)まで数え切れないほどの狼が行列になり(千匹狼)、駟馳山峠を通行する人がいると、たくさんの狼が峠を下りきるまでじっと後をつけてくるだけですが、後ろをふり返ると襲われるそうです。ある商人が駟馳山峠にて狼に襲われて木に登って逃げたところ、狼が群れになって梯子を作り、その狼梯子を登って襲ってきた年老いた狼を叩いて逃げ切った先にあった一軒家に泊めてもらうことができました。
しばらくして部屋の奥で唸り声が聞こえてきたのでその家族に尋ねると、「おばあさんが梯子から落ちてケガをした」との回答、その後も唸り声が下のでしょう人が部屋を覗くと布団奈緒中でうめき声をあげる年老いた狼が寝込んでいたとの事…
伝説とはいえ、本当に夜の峠越では狼がいたのではないかと思うと怖くなりますね。実際今でもイノシシはいるので注意です…
駟馳山峠には三韓征伐から帰国の際に産気づいて駟馳山にこもって七日掛かって応神天皇を出産し、そのことからしちやまの名前の由来にもなっている…という伝説があり、(その他、出兵の前に福部に寄港したとか、福部の弥長神社にも「応神天皇御誕生の地」と出産時に使った井戸もあり暗算で玉のような赤ちゃんが生まれたという伝説があります)※公式には福岡の筑紫で出産したという説が有名ですね
あくまでも伝説ですけえ違う!などの批判は許してつかんせえ…。
宇治川の戦い(、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された範頼、義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ)で先陣争いをした佐々木高綱の愛馬・生月(いけづき)の産地といわれています。また石畳道には蹄の跡とされるへこみがあり、案内板が設置されています。(ただ石畳は1811年整備なので年代にズレがあり、蹄の跡がついた石畳を遺して整備時に使用したのかどうかは不明です)
江戸時代の交通路だった駟馳山峠は優な坂道の上、赤土だったので雨の日にはとても滑りやすく、通行人はとても困っていたところ、1811年(文化8年)に備前国邑久郡上山田(岡山県)の多十郎さんという男性がやってきた際にその様子を見て「民衆の難儀を救うことは仏祖報恩の道」と考え、大谷、平野、細川の庄屋や鳥取藩に工事用具の貸下げの許可を取り石畳の整備を行い1812年(文化9年)に完成したと考えられています。
また、石畳を登り切った平地には茶屋があり、旅人の休憩所となっていたそうです。多十郎さんのお墓は小畑1号墳下の旧道にあります。
この石畳道は改良工事により一部失われていますが、幅約5mの道の中央部幅約2m、長さ152mの石畳が遺存されていることが平成3年に確認されました。2017年には「山陰道の石畳―駟馳山峠、蒲生峠」の一部として、土木学会選奨土木遺産に選ばれ、さらに1997年(平成9年)2月28日には石畳道が県の史跡に指定されました。
駟馳山にはかつて松の木が沢山あり、麓の集落の人々の暮らしを支えていました。たとえば松の葉はお風呂の着火剤、燃料として使われており、松の葉の採集に人が出入りするので道も踏み固められ山の手入れも自然とでき、藪にはならなかったのですが生活様式の変化により、松葉が不要になり山に入る人も減り、草がたくさん生えるようになりけもの道のようになっていたと言われています。
駟馳山登山口にはイノシシが降りてこないよう鉄柵があります。入山・下山する際には必ず柵を閉めるようにしてください。写真1枚目参照