露軍将校遺体漂着記念碑

露軍将校遺体漂着記念碑

日露戦争による露軍遺体漂着による岩美町民とロシアとの関係と記念碑について記載します

露軍将校遺体漂着記念碑を訪ねよう

露軍将校遺体漂着記念碑は、明治38年(1905年)5月27日に終わった日本海海戦のバルチック艦隊撃滅の時、約3週間後に、田後港の沖合で発見されたロシア将兵遺体を漁師が港へ連れて帰り、敵国であれど同じ人間だ、仏になったなら丁重に供養するがよかろう、と判断し地元の村民が葬儀を営み、埋葬したことを記念しています。(のちに詳細解説)

 

露軍将校遺体漂着記念碑は鴨ヶ磯展望台から階段を降りて、城原海岸へ向かう方向(右)に歩き、椿谷に入る手前の遊歩道にあります。

現地の案内版との差異もあり、鳥取県の調査による情報の補足にもなりますが、明治38年6月17日に田後港から2〜3キロ沖を25歳くらいに見える1遺体が(漂流)しているのを漁師さんが連れ帰り露軍だという事は着衣でわかりますが氏名などは不明でした。

 

また翌日、出航した船が1遺体を見つけ、港に帰港する船に預けた、との事です。着衣の遺留物から氏名は判明しており年齢は35歳くらいに見えたそうです。更に6月27日には城原海岸の洞窟に30歳くらいの着衣の無い1遺体が漂着していて、この遺体も椿谷に葬られたと思われます。 そのことから発見日はすべて別日で計3遺体が埋葬されました。

 

この際、田後は網代との村境、敵国の遺体をなぜ…と言う事で賛否に分かれることは人の感情としては当然のことで…村の意見は割れたことは事実です。しかし、冒頭に書いたように『敵国であれど同じ人間だ、仏になったなら丁重に供養するがよかろう』という結果を出し、村境に埋葬したようです。

 

その後、日本政府(軍部)はロシア兵の遺体(対馬 山口 島根などの漂着、捕虜の死亡)を全国3ヶ所の外国人墓地にまとめるとし、椿谷の遺体は掘り上げて長崎のお寺に移しました。

 

また6月26日に羽尾の海岸にも30歳くらいとみられる1遺体の漂流が発見されました。隣海院で法要をして羽尾村の共同墓地に埋葬しましたが、山陰線路敷設の為山側に移動しました。墓石は今も残っており、毎年のお盆とお彼岸には花が手向けられています。平成 6 年 5 月に埋葬地付近に「露国軍人碑」を建立しました。この遺体も長崎に送られたと思われますが、県に記録はありません。

 

なお、長崎のお寺は昭和20年の原爆で破壊し多数の墓碑が消滅し、鳥取から改葬されたロシア兵を確認することはできない状況になってしまいましたが平成8年に再興され、外国人墓地『稲佐悟真寺国際墓地』に慰霊碑があります。悟真寺(ごしんじ)は長崎県長崎市にある浄土宗の寺院で正式名称は終南山光明院悟真寺です。本尊は明国由来と伝えられる阿弥陀三尊像で長崎市に現存する最古の寺院です。
所在地: 〒852-8008 長崎県長崎市曙町6−14

露軍将校遺体漂着記念碑建立と交流までの歴史

その後、昭和37年に村民の「人類愛」の精神を顕彰するため、初代国連大使で岩美町出身の澤田廉三さんによって鴨ヶ磯海岸の椿谷に露軍将校遺体漂着記念碑と碑文石が建立されました。澤田夫妻の精神である母子愛・祖国愛・人類愛の『三愛』のひとつです。
碑文石
しかし、時が経過するにつれ、この人間愛という出来事や露軍将校遺体漂着記念碑があることを知らない若い人たちが増えてきました。澤田廉三さんの遺徳をしのび、このまま葬ることは同郷の一人として、また日本人として許されない!っと感じた岩美町浦富出身の和田麻太郎さんが、岩美町の郷土文化研究会会長の吉田正博さんと相談し、全国の人に広く知ってもらい、ソ連(ロシア)と文化交流をし友好を深めたいと決意し活動をし始めたのが昭和62年の事です。

 

外務省や日本対外文化協会、ソ連大使館(当時)、領事館などにこの話を持ち掛け走り回りました。

 

その成果もあり翌年昭和63年5月15日に露軍将校遺体漂着記念碑の前で慰霊祭が開催しました。慰霊祭にはソ連大使館のY・D・クズネツォフ公使夫妻とソ連国営ノーボスチ通信社東京支局長のアレクセイ・K・バンテレーエフ夫妻が参列し、83年ぶりに戦死した2人の将兵をしのびました。
この日は田後小学校、岩美中学校、岩美高校のブラスバンド隊の演奏で温かく歓迎し、遊覧船にて浦富海岸の観光、浦富小学校にて子どもたちが描いた絵の贈呈、陸上地区の勝海院での法要、そして、この碑を建立した澤田廉三さんの遺品展を鑑賞しました。

 

さらに同日、『祖父が露兵を埋葬した』という浜坂の吉田さんが静かに待ち望んでいました。思いがけない告白に驚いたクズネツォフ公使は祖父の写真を見ながら何度も握手を交わしたそうです。

 

後日、『今日のソ連邦1988年6月15日号』にアレクセイ・K・バンテレーエフさんにより慰霊祭に参列されたことにについての記事が発行されました。開催にかかわった人たちへの感謝、岩美町、田後の人々が誇りに思う『人類愛』についての受け止め、この気持ちを現代も日ソ(当時)という隣り合う両国民の友好善隣関係の確立と強化に受け継がねばならないと強調し、

 

クズネツォフ公使は日本海で戦死したロシア人水兵の慰霊に寄せられた配慮に心から感謝し、ソ連と日本の岸を洗うこの海は隣国民同士の友好と協力の海となり、慰霊碑と、今回の行事は相互関係のシンボルになると確信すると述べたそうです。

 

その後、5年毎にロシア外交官が訪れ献花を行う「露国将兵慰霊祭」が催されています。(現在※ウクライナとの戦争により中断しています)

 

私たちは露軍将校遺体漂着記念碑までのガイドも行っていますのでよろしければご活用ください。


和田麻太郎さんが拓いた友好関係

記念碑に関しては澤田廉三さんの名が連なっていますが、この慰霊祭による友好関係を拓いた立役者は岩美町出身で東京で家具製造業を営んでいた和田麻太郎さんです。和田さんは岩美町浦富出身で大正3年の14歳の頃に大阪に出てなんとか仕事を開拓し、工場を構える経営者になりました。一度浦富に戻ったのが昭和16年、しかしその後17年に、東京に上京しました。商店を構えるべく準備をした矢先に戦争の招集を受け、店をたたむことに。

 

しかし、視力検査におち、その日に除隊、また東京に戻って目の前に思いつく仕事をしながら終戦まで様々場所で難を逃れながら戦後の苦しい状況も乗り越えて生き延びてきました。(除隊された際に戦地に向かったグループは全員行方不明で還らぬ人になったそうです)

 

和田さんは岩美町への郷愁は強く、都心部で仕事で成功していく一方で常に岩美町のために何かできないかとばかり考えていたそうです。岩美町に桜やアジサイを贈ったりと出来ることを重ねていました。

 

戦後昭和27.8年ごろ、日米関係が深まるにつれ、ソ連とも交流しなければ…と思いつき、ソ連大使館を日参し、当初は子供同士で絵の交換などができないか?など考えていたそうです。なかなか思うようにいかず、時が流れて昭和62年の事、里帰りした際に、知人でもあった澤田廉三さんが建立した記念碑が人々に忘れ去られ、草に覆われる状態になっていたころ、長い月日をかけてきっかけを掴み、この慰霊祭への熱意が行動に現れました。

 

余談…桐山城跡に公園を創ろうと計画したこともあるそうで、この意思は現在、いわみガイドクラブの油浅会長が引き継いで毎年登山道整備など一人でもコツコツしている!けどメンバーが高齢化で継続が厳しいということも知っている…涙

と、話は戻り。

 

 

慰霊祭にソ連大使館を招待したい!という和田さんは何度もソ連大使館に出向き、大使館から承諾が出たものの現実的に迎えることが難しかったのです。慰霊祭を実行しようとする頃はソ連が崩壊、ロシアへ移行する時期にあたりました。 ソ連の公使が鳥取県にしかも岩美町を訪れる事は当時とてもとても大変な事でした。公使夫妻に万一の事があってはいけないのは当然ながら、その警備は県には経験のない事です。(県は実のところ実現は反対したいと思っていたらしいです)

しかし和田さんの熱い想いを受けた岩美町の郷土文化研究会会長の吉田正博さんが、小さな田舎町にソ連大使館を招くなんて叶わない願いだとわかりつつも行動に移したのです。その行動は岩美町長に直談判としてあらわれ、やっとの思いで実現したのが前述の慰霊祭です。

 

その後、岩美町ではウラジオストクに桜並木を作る運動(苗木200本)や医薬品や食料を送るための町民からの募金(155万円)など独自で交流活動を行っていました。このことを知っている町民ももう少ないでしょう。

 

このように日ソ親善を深め続けた岩美町は東京でゴルバチョフ大統領の歓迎レセプションが行われた際に当時の沢徳次郎町長が出席しました。小さな町の町長が国際的な場に参加できるのは本当に稀なことです。

 

和田麻太郎さんは日本対外文化協会から感謝状を贈られるなど日ソ友好関係に尽力し、1989年7月4日に天に召されました。和田麻太郎さんは人類愛だけでなく、岩美町にもたくさんの桜を贈り、学校の図書館には本を進呈し、郷土愛にあふれていました。自身の戦争体験をつづった『平和への祈り』や『故郷の夢を見た』という著書があります。

 

岩美町が空襲に遭った時の体験談含む平和への祈りを読んだ感想はあらためて記載します。