澤田廉三(初代国連大使・外交官)

澤田廉三(初代国連大使・外交官)

鳥取県岩美町出身の日本の外交官である澤田廉三氏が外務次官後、駐フランス特命全権大使・初代ビルマ特命全権大使、初代国連大使、世界経済調査会議長など功績を遺したことや配偶者の美喜さんの経歴も記載します

澤田廉三・美喜夫妻の功績を知りゆかりの地を巡ろう

澤田廉三(当サイトでは解説時廉三さんと記載します)は鳥取県岩美郡岩美町浦富出身(明治21年(1888年)10月17日-昭和45年(1970年)12月8日)の外交官で初代国連大使として功績を遺しています。地元では澤田3兄弟として優秀で有名でした。

 

父:信五 東浜村(現新温泉町浜坂)の森家出身。浦富村長、県会議員、北海道で漁業や牧場の経営
長兄:節蔵(1884-1976)外交官
弟:退蔵(1893-1970)実業家(三菱、富士紡績)
次兄、3人の妹

東京帝国大学法科大学仏法科卒業後は外務省に勤務し、フランス大使館へ赴任、のちの1922年、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれた美喜さんと結婚し、アルゼンチン、ブエノスアイレス北京、イギリス、フランス、米国、満州、ビルマなど海外を転任しました。

 

澤田廉三さんの主な外交官としての功績

  • 1914年 - 外交官及び領事官試験に首席合格し、外務省に入省
  • 1916年 - フランス大使館に赴任
  • 1921年 - 皇太子裕仁親王(昭和天皇)の欧州歴訪時にフランスで通訳・案内役を務める
  • 1923年 - アルゼンチン・ブエノスアイレスに転任
  • 1924年 - 中国・北京に転任
  • 1931年 - イギリス・ロンドンに転任
  • 1933年 - フランス・パリに転任
  • 1935年 - 米国・ニューヨークに転任
  • 1936年 - 満州国大使館参事官に就任
  • 1938年 - 外務次官に就任
  • 1939年 - 駐フランス特命全権大使に就任
  • 1943年 - 駐ビルマ特命全権大使に就任
  • 1944年 - 再び外務次官に就任
  • 1953年 - 初代国連大使としてニューヨークに赴任
  • 1956年 - 国連加盟に向け尽力し、後任の加瀬俊一の在任時に日本の国連加盟が実現

外交官生活として妻である澤田美喜さんの縁談~外国生活を併せてお読みください

第二次世界大戦直後、澤田廉三さんは1943年のビルマ大使の経験を活かし、連合軍と捕虜の間の仲介役を務めました。1945年12月2日、磯田三郎元陸軍中将とともにインド西北部のデオリ収容所(アジュメール近郊)を訪れ、収容者に日本の降伏を説明し、昭和天皇の終戦の詔勅を読み上げるなどの説得を行いました。しかし、澤田と磯田を偽物と疑う者が現れ、収容所内で「勝ち組」と「負け組」による抗争が発生しました。

勝ち組(かちぐみ)とは、第二次世界大戦の日本の降伏後も、日本の敗北を信じず、「日本は戦争に勝った」と信じていた在外日本人のグループのこと

 

帰国後は連合国軍最高司令官総司令部GHQによる公職追放を受けました。その一方で、親しい友人であったポール・ラッシュ(アメリカ合衆国インディアナ州出身の教育者、伝道者、親日家、立教大学名誉教授、日本アメリカンフットボールの殿堂顕彰者:当時GHQ参謀第2部(G2)民間情報局(CIS)所属)に麹町の私邸を提供し、ポール・ラッシュはこの建物をCISのオフィス「CISハウス」(別名サワダ・ハウス)として使用し、1949年7月に退役するまで日本人戦犯リストの作成や赤狩りに関係した情報収集活動に携わる拠点としました。澤田廉三さんはまた、ポール・ラッシュと接触を求める政府関係者の窓口役も務めました。

 

 

澤田廉三さんの理念は『愛国は愛郷より』

  1. 私が今日あるは一に浦富の賜物であると述べる
  2. これからの時代、若い人は世界に目を開きなさい
  3. 観光資源を外国にも紹介する『国際観光』を提唱

を掲げていて世界の政治の舞台において自分の国の問題を世界の問題として提起し、世界の知恵を借りて世界の援助によってこれを世界的に解決してもらいたいと1956年10月の国連デーで講演し、同年12月に国際連合に加盟しました。

 

退任後には外務省顧問に就任し、美喜さんが創立したエリザベスサンダーズホームの事業にも協力されました。

 

エリザベスサンダーズホームとは、澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を創立しました。

 

また、エリザベスサンダーズホームの子供たちがのびのびと海水浴ができるようにと、岩美町の熊井浜(入り江になっている)にある別荘【鴎鳴荘】を臨海学校の場にしましたが、ここはとても良い地形でした。拠点である大磯の広いビーチとは違い、三方を山で囲まれたくまやの海(熊井浜)ではプライベートビーチのようになっていて、差別もされず、周囲の目を気にすることなく、心置きなく海水浴を楽しみ、余暇は岩美町の子供たちと野球の試合をして交流を結んだそうです。

 

この交流は、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。ちなみに私もこの授業に2016年に参加しましたが生徒さん皆一生懸命部屋の掃除をしていました!

普段、鴎鳴荘の中には入れませんが、窓から見た熊井浜の写真を掲載します。この窓から海を眺めて食事をしたり、二階の窓辺にみんな座って勉強をし、勉強が終わった子から海で遊べる!という子供らしいルールもあったそうで目に浮かぶ光景でした。

 

  • 沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月17日 - 1970年12月8日)外交官
  • 沢田 美喜(澤田 美喜、さわだ みき、1901年9月19日 - 1980年5月12日)社会事業家

澤田廉三氏が岩美に建てた碑

澤田廉三氏は『三愛』を提唱し、外交官として世界中を飛び回り様々な風景を見てきた中でも岩美町の浦富の美しい風景を忘れず、故郷を世界に誇る気持ちをずっと持っていたのは寄稿文や書籍などから伝わります。

 

田後に漂着したロシア軍将兵の遺体を厚く葬った田後漁民の心を「人類愛」(鴨が磯でも記載)として讃え、昭和37年6月に「露軍将校遺体漂着記念碑」を自費で建立し、岩美中学の裏山に浦富生まれの仙英禅師(井伊直弼の精神的支えになり英断を促した人物)に「祖国愛」として碑を建立、曹洞宗通幻派始祖の通幻禅師を墓中で出産した母の力を「母子愛」とし「通幻禅師の碑」が建立しました。

 

のちに、この碑に対する町内の若者の認知度が無くなってきたころ、同郷である和田麻太郎さんにより、日露友好へ導くことになりました。詳しくは露軍将校遺体漂着記念碑和田麻太郎さんに関する記事をお読みください。

 

戦争末期時の浦富町長の栗村嘉水さんは通幻禅師と仙英禅師の顕彰碑をゆかりある香林寺跡に建立を計画し、碑文を宗派の永平寺と總持寺に依頼、栗村さんの手元に届きました。資金も広く集め廉三さんも寄付し、台座石も据えられました。しかし碑石は鳥取地震により、割れてしまい届かなかったのです。栗村さんはこのことを悔みながら亡くなりました。

 

廉三さんは通幻禅師生誕伝説を「母子愛」と提唱していました。廉三さんの死後、平成になって既に準備されていた台座の上に「母子愛の碑」が建立されました。ようやく長い年月を超えて様々な人々の想いが形になりました。この時の碑文の現本は永明寺さんにあります。

 

また、昭和42年に岩美町出身の初代国連大使・澤田廉三さんは国連平和の鐘と岩美中学校裏山の仙英禅師碑に由緒ある角館の枝垂れ桜を植えられました。しかし現在、桜は枯れてしまい国連にも仙英禅師碑がある仙英ヶ丘にもその姿は見当たりませんし語る人もいません。そこで『仙英ヶ丘枝垂桜を育てる会』として2023年に再度植樹するに至りました。

 

廉三さんは仙英禅師のことを、鳥取県倉吉の吉祥院にて修業を積んだ人であることを郷土の誇りとし、県の栄誉としてその徳を広く検証したいと想うと同時にわが郷土、鳥取県下から禅師の開国思考を受け継いで世界に闊歩し万国を友とする人が今後ますます出てくることを祈ってやまない、と記録しています。

そして2024年開花、廉三さんが世界平和と郷土の誇り・仙英禅師の功績を語り継ぐべきという思いは、2024年に新たに開花しました。

 

仙英ヶ丘枝垂れ桜を育てる会の植樹記録は

をお読みください。

澤田廉三美喜夫妻のお墓参り

澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、関係者、澤田美喜さんが創設した神奈川県大磯町のエリザベスサンダーズホームの卒院生がお墓参りに来られます。澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。

 

また油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。