鳥取城は1532年~1555年に但馬山名氏により築城とされ、武田高信が城主となった記録から始まり、山名氏・武田氏・尼子氏・毛利氏の争奪戦の舞台となりました。1580年羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めでは山名豊国が和議により信長へ降伏、臣従しましたがその後も毛利家が来訪し、牛尾春重が城将として入るも桐山城攻めで怪我を負い、何人か城将が変わり、毛利氏の重臣である吉川経家が城主になった1581年には羽柴秀吉による兵糧攻め「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」にあい、『信長公記』にはその時の悲惨な様子が記されています。
(吉川経家は城に入る時に自分の首を入れる桶を持参して入城したとの説あり)
また2023年には兵糧攻めで開城後に秀吉軍のふるまうおかゆをたくさん食べたものが急死し、ゆっくり少し食べたものは生き残ったことからリフィーディング症候群ではないかという説が唱えられ再注目されました。
兵糧攻めの時には石垣はなく、尾根を切り盛りして平らな敷地を作り、その周囲に切岸という急斜面を作って防御するまさに土から成る「城」でした。
安土桃山時代になり1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げた宮部継潤が城主になった際に石垣と天守を築き5.6万石規模の近世城郭となりました。しかし、息子の長英が1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため、鳥取城は東軍についた鹿野城主の亀井慈矩(これのり)や竹田城主の赤松広秀(斎村政広)等の攻撃を受けて開城し、関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により池田長吉(姫路城主の池田輝政の弟)が城主となり、1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した時を転機に池田光政は32万石に整備し1617年鳥取藩が誕生しました。
1632年に岡山城主の池田忠雄の死去で。3歳の光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟である光政との国替えを命じて、池田家は光仲をはじめ12代継承し1871年(明治4年)に明治維新を迎え廃城となりました。
鳥取城跡は国の史跡に指定にされ日本100名城(63番)にも選定されています。
〒680-0011 鳥取県鳥取市東町2丁目
標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭で久松公園に入り、鳥取県立博物館を左手、仁風閣を右手にまっすぐ進むと中仕切門があり、石垣を望むことができます。
久松公園入口にある、石碑「横に広がる平和の象徴」は岩美町出身の彫刻家山本兼文さんの作品です。
鳥取城の歴史、樗谿公園から太閤ヶ平等に関してもガイドさんに案内していただき実地検分で学習したりしています。