いわみのあしあと・歴史と観光と暮らしの記録

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「 澤田美喜 」の検索結果
  • 熊井浜
    熊井浜を知って遊びに行こう!熊井浜は国道178号線沿いの羽尾トンネル西側の手前のトレイル入り口から下ってたどり着く入り江になった浜で、利用者も少なくまるでプライベートビーチのような特別感のある綺麗な砂浜です。この浜は岩の種類が右と左で違い、花崗岩と安山岩が非常にわかりやすい場所でもあり、波食窪など地質学習としても見どころがあるほか、海の生物もたくさん確認できるので夏休みには小学生の自由研究で海の生き物図鑑を作る課外学習なども行われます。また、写真の島は漢詩人・国府犀東の「浦富海巖勝区八景詠」という連作に選定された其三・蔵王島(ぎおうじま)夕照 です例年オカヒジキ戻って来い来いプロジェクトといって、熊井浜本来の植生を取り戻すために外来種であるオニハマダイコンやアレチウリなどを駆除してオカヒジキやスナビキソウなどの海浜植物を守る活動や貴重なタジマタムラソウも見守っています。オカヒジキ戻って来い来いプロジェクトに関するレポート記事2023粘土版海岸までのトレイルは山陰海岸ジオパークトレイルコース内にありますが雨の後は足元が非常に悪く、またイノシシなども出没しますので注意が必要です。また、海岸手前に鴎鳴荘という、岩美町出身の初代国連大使である澤田廉三氏の配偶者の澤田美喜さんが創立したエリザベスサンダーズホームの臨海学校として利用されていた別荘があり、私有地の為立ち入り禁止ですのでご注意ください。参考記事:熊井浜にある鴎鳴荘と岩美中学校の修学旅行熊井浜周辺のおすすめスポット山陰海岸ジオパーク海と大地の自然館鳥取県岩美郡岩美町牧谷1794−40857-73-1445岩美町立渚交流館所在地 鳥取県岩美郡岩美町牧谷690−20TEL:0857-73-0118鳥取県自然体験塾所在地 鳥取県岩美郡岩美町牧谷690−20 渚交流館内TEL:080-4555-7301牧谷窯モトフサ現代美術館
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  • 澤田美喜(社会事業家)1.誕生~学生時代
    澤田美喜さんの功績を知って歴史を学ぼう澤田美喜さんは、鳥取県岩美郡岩美町浦富出身の外交官であり初代国連大使の澤田廉三さんの妻で、 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として1901年〈明治34年〉9月19日東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で誕生しました。ご祖父様である三菱財閥創始者の岩崎彌太郎のお母様である美和さんと妻の喜勢さんから一字ずつ取り、美喜と命名されたそうです。美喜さんは聖書に興味を持ちこっそり勉強してはキリスト教を信仰していましたが岩崎家の宗教は真言宗でした。1922年に岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗します。ちなみに、妹・綾子さんは福澤諭吉の孫である堅次さんと結婚されています。澤田美喜さんは社会実業家としてエリザベスサンダーズホームの創立や聖ステパノ学園の創立をし、別荘地(臨海学校の場)として岩美町熊井浜にある鴎鳴荘を利用されていた縁から、卒業生が澤田美喜さんの墓参りに鳥取県岩美郡岩美町浦富にお墓参りに来られます。 また以前、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。また澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。エリザベスサンダーズホームとは?澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を設立しました。澤田美喜記念館とは?神奈川県中郡大磯町にある資料館で、GIベビー支援のためエリザベス・サンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校を創設した社会事業家・澤田美喜さんの収集した隠れキリシタン資料が保管されています。美喜さんは、児童養護施設エリザベス・サンダースホーム運営のかたわら、日本各地から隠れキリシタンに関する貴重な資料874点を収集していました。そのうちの約3分の1の資料が澤田美喜記念館に展示されています。またこの記念館は聖ステパノ学園(サンダースホーム)の敷地にあり、1階が展示室と受付、2階が礼拝堂となっていて庭には鐘楼がありますエリザべス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館所在地神奈川県中郡大磯町大磯1152番地澤田美喜さんの生い立ちと歴史1.誕生~学生時代年月出来事1901年9月19日岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として誕生1907年4月お茶の水東京女子高等師範学校附属幼稚園に入学、以後付属小・中学部へ進学1916年4月東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を中退し、日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者である津田梅子らの家庭教師で学習をはじめる1922年7月岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗1923年廉三さんのアルゼンチン・ブエノスアイレスへの転任に伴い同行4月おばあ様・喜勢さんが死去7月長男信一さんがブエノスアイレスで誕生1924年8月 次男久雄さん誕生(声楽家・安田祥子さんの夫となる)10月 夫廉三さん北京に赴任、随行1925年9月三男晃さん誕生(洗礼名ステパノ、聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名の由来)1926年10月 夫廉三さんが外務省本省転任により随伴して日本に帰国1928年4月長女恵美子さん誕生1930年7月 夫廉三さんがロンドンに赴任、となり随行する1931年秋孤児院ドクター・バーナードス・ホームを訪問し、院長の言葉に感銘を受け週に一回奉仕活動を始める1932年春 歌手ジョセフィン・ベーカーと知り合い、以後交友を深め、良き理解者として活動を支援していく 10月 夫廉三さんがパリに赴任となり随行する。また、画家マリー・ローランサンの弟子となる。1935年夫廉三さんの米国・ニューヨークへの転任に伴い随行する1936年2月日本に 帰国1939年日系2世留学生を受け入れる外務省施設「敝之館(へいしかん)」「瑞穂館」の設立に伴い、瑞穂館の応援団長となり、野球チームのマネージャーにもなる1945年海軍志願兵だった三男・晃さんがインドシナ沖で戦死。終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。1946年10月 エリザベス・サンダース女史が日本聖公会社会事業に$170を遺贈 のちにホームの名の由来となる11月 遺棄された嬰児が電車の棚から膝に落ちてきて、お母様親の疑いがかけられ、戦争国際児救済を決心1947年G2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜さんは誕生した子供の育児指導をする。10月 混血乳幼児収容施設発起人会が聖路加国際病院にて開催され、日本聖公会社会事業に$170を遺贈したエリザベスサンダーズ女史の名前からエリザベス・サンダース・ホームと命名。1948年2月社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム創立。理事長兼園長に就任したが進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏状態だった。1949年50年ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行い、この頃ニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち、美喜さんおよび長女恵美子さんと親しい友人になる。グレースは、モナコ公妃となったあとも美喜さんの活動の良き理解者として支援する。1953年59年ホームの小学校と中学校として学校法人聖ステパノ学園を創立する。1962年ブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し孤児院の卒園生が数多く移住する。1970年12月8日夫・廉三さんが死去。1980年5月12日スペインのマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死1988年4月神奈川県中郡大磯町に澤田美喜記念館が開館澤田美喜さんの私の履歴書の要約誕生:男よりも元気な産声お母様は年子で男の子を三人産んで岩崎家では少し華やかな友禅のいろどりを心ひそかに望んでいた人も多かったようです。明治34年9月19日明け方の5時、『また男の子だったら・・・』という周りの心配を吹き飛ばすように産声を上げたのが美喜さんでした。女の子だという喜びもありながらも、今までのどの男の子よりも大きな産声で、身体も大きかった上に、赤い模様の着物を着ても似合わず、男の子みたいな顔だと老女中の中でも語り継ぐ話となったようです。多方面の取材や書籍で美喜さんご自身が自分は男みたいだ・男勝り・だなどといわれてきたという表現が多いので、ここでも記載しますが周りがそう思っていたのか、本当に言われたのかは定かではありません。今後も美喜さんのエピソードよりこのような表現は続きます。また時代背景による価値観で現代にそぐわないこともございますがご了承ください名付け親は大叔お父様の岩崎弥之助さんで大おばあ様の『美和』おばあ様の『喜勢』の一字ずつ取って『美喜』とされ、二人の女性にあやかってもらいたい願いが込められていました。大おばあ様の美和さんは美喜さんにとっての祖お父様である岩崎弥太郎さんのお母様ですおばあ様の喜勢さんは美喜さんが生まれる前に11歳の娘:照子さんを亡くしていて、その悲しみの気持ちや思いを美喜さんの誕生に移して愛情を注ぎ21日の産褥を過ぎた床上げ以降は、おばあ様の喜勢さんの部屋に引き取られるようになり、授乳の時間だけお母様が呼ばれていたそうです。22歳で結婚するまでおばあ様のもとで育ち、祖お父様たちの土佐生活の話、三菱の事業を興した話を繰り返し繰り返し聞かされて人生観の基礎となったと記されています。幼年のころ:お父様によくしかられるおばあ様の行くところにはいつもついていきました。また、お母様方の里の保科家でも三つの祝いの時に老女たちに男の子みたいだと嘆かれた記憶、おばあ様が大切に飼っていた生き物を力任せで傷つけてしまい美喜はもう連れてこなくてもいいと言われたことを大人になっても覚えていました。2年後に妹が産まれますがおとなしい子でままごとや人形遊びを好まない美喜さんは3人の兄たちと遊ぶことが多く、大弓や柔道の相手もこなし、稽古台としてポンポンひたすら投げられているように柔道の先生に命じられ、投げられているうちにいつの間にか技を覚えるようになったそうです。お父様はすべてに厳格で、特に長男と美喜さんには厳しく、蔵に入れられるなどのお灸をすえられることもよくありましたが、お父様の説教はいつも短く誠意にあふれた一句で胸にピンときて言い返せなかったそうです。周りからはぜいたくな暮らしだといわれていましたが実際の生活は質素なもので兄のおさがりの筒袖のかすりには女の子だとわかるように赤い袖口、兄のおさがりの一ツ橋付属小学校の金ボタンの外とうも赤いビロードのふちをわずかにつける程度でフードをかぶっているとどう見ても男の子にしか見えないので中性で通ってしまったと記されています。おばあ様の事:機織りを教えられるおばあ様は三菱を作り上げた祖お父様弥太郎さんの元に17歳で嫁ぎ、内助の限りを尽くした人なのでモノも時間も無駄にしたくない人で、すべて自分で作り上げてきたという経験から片時もじっとすることができず、夏には冬支度、冬には夏支度、というように年中手も体も動かし働き蜂で、そのおばあ様と一緒にいた美喜さんにもうつってしまってずっと動き回っているのかもしれません。とご自身で語っています。おばあ様は生まれ故郷の土佐から機織り女を呼んでいつも手機をおらせていたそうです自分で蚕を飼い、糸を紡いでそれを織ってはじめて絹の着物を着る資格ができるといって、今のサンダーズホームのある大磯の別荘で蚕を飼って毛蚕(けご)のはきたてから四眠( 蚕が卵からかえって繭をつくるに至るまで四回脱皮をすること)になり、そしてまぶして繭を作らせて繭を煮て糸を取るところまで教わり、機を織ることも教えられ、白木綿、紺物、麻のカヤを織り、ようやく絹を身に着ける資格を許されたそうです。おばあ様は岩崎家を興した人でありながらもつつましやかで質素な生活をし、おしろいなどの化粧をすることもなく、外の仕事で忙しくなかなか帰宅しない祖お父様がたまに帰ってくるときだけ上から下まで清潔なものを身につけて真っ白い足袋を履くというのが最大の身だしなみだったと懐古されました。語学:津田梅子先生に英語を習う美喜さんは5歳の頃から兄と一緒に津田梅子さん(2024年に5000円札の人物画になった方)から英語を教わりました。美喜さんのお母様が華族女学校を卒業後に英語塾で津田先生から英語を学んでいました。当時外国に行きたいと思う夢を果たすことができなかったことを娘に託し、どこの国に行っても語学を一番に勉強をし、すべての話題に入ることができるよう広い常識を持っていなさいと、外国語教育に力を入れたそうで美喜さんもそれに応えて一生を通じて語学を一生懸命に学び続けました。のちに澤田廉三さんと結婚し、海外赴任に随行したことはお母様の夢も自身の夢も叶ったといっても良いですね。お茶の水時代:初めてひとりで電車へお茶の水と呼ばれた女子師範付属幼稚園、小学校、女学校までエスカレーター式に進学した美喜さんはお父様が留学時代にできた友達が米国大使として来日した際に、大使館に行って習った英語を試すテスト(会話)を繰り返していました。その反面おばあ様が考えている家庭的な料理やお針方面は遠ざかったようです。学校へは女中さんが送迎をしてくれるのですがとある日に忘れ物をして取りに帰らないといけなくなり、初めて一人で電車に乗る時にドキドキしたり、降りるときに車掌さんに切符を渡すのを忘れ、追いかけられてしりもちをつき、その時に何を忘れたのか自体を忘れてしまったことは世界を飛び回るお仕事をされている美喜さんにとって、一生の中の第一の大冒険として記録しています。一族の注意人物:バテレンなげくおばあ様兄妹が次々にはしかにかかり美喜さんにもうつってしまい皆で大磯の別荘に隔離されていた時、暑くて寝苦しい夜に隣の部屋で川手さんという看護士さんが小さな声で聖書を読んでいました。岩崎家は仏教徒(真言宗)なので初めて聞いた他宗教の言葉で美喜さんの心は不思議とグイグイと惹かれ翌日、川手さんに見知らぬ宗教のことを聞いてみたところ、川手さんは岩崎家がキリスト教に対して厳しい意見を持っていることを知っているので詳しく教えてくれなかったのです。はしかが治って東京に戻ったら早速、日曜学校に行っている友達に叔お父様さんからお土産でもらったイギリスのバッグと引き換えに聖書を手にしました。しかし、そのことはすぐにおばあ様に見つかってしまいひどく怒られましたが美喜さんはキリスト教に対する探求心がより一層増して、私物の良いものと聖書を交換していました。一方おばあ様は美喜さんが交換した聖書を見つけるたびに焼き捨てました。土佐では真言宗が多い国のため、キリシタンバレテンは毛虫のように忌み嫌われていた宗教なので、お母様の床上げの日から引き取って育てあげた孫が聖書の教えに引き込まれるというのは大変な絶望でああ、お前がバレテンになるとは先祖様のお墓はどうなるの?私のお墓もおじいさまのお墓も草ボーボーになってしまうとなげいたそうです。お茶の水中退:毎日家庭教師おばあ様の嘆きを聞いて以来、美喜さんはキリスト教のことを一切口にしていませんでしたが、仏教の来制に希望を持つというあきらめの教えに対し、キリスト教には現世に天国を延長させる生きた活気を感じていました。おばあ様はご先祖様を大事にし、岩崎家にとってご先祖様は火のような力を持ち、お正月、進学、結婚、出産、など大事な節目にはまずご先祖様に報告するという習慣が美喜さんの中にずっとあり、『先祖』という言葉にとらわれてキリスト教に惹かれるも(のちにキリスト教の廉三さんと結婚するまで)何もできないでいました。このご先祖様を大事にすることがのちに記載する戦時中のことにもつながります結局、バレテン(キリスト)に傾倒したり問題を起こす理由は美喜さんと友達と学校が悪いと藩案を下され、お茶の水の女学校を中退することになりましたが、むしろ同じ型の判で押したような人間を作る工場のような学校に行かなくて済むことにほっとしたのです。ところが、ホッとしたのもつかの間、毎日家庭教師で国語・漢文日本画お習字お花油絵英語お裁縫・ミシン掛けお料理一日のスケジュールがいっぱいになったのです。妹さんはお料理やお裁縫は得意でよい点数だったそうですが美喜さんはお料理や和裁などが苦手で苦労したとご自身でおっしゃっていました。愛情ある指導:お父様お母様と書庫にこもる家庭教師による過密スケジュールで膨大な課題をこなす日々、各分野の専門家による指導に引き込まれていていき、英語のわからない部分をお母様に調べてもらったりお父様と漢詩を読んだり絵をかいたりしたことは、のちに自分の人生を振り返ったときに、宝石で身を飾っていた時や美しい着物を沢山持っていた時でもなく、厳しくても清い生活の中でお父様お母様の愛情ある指導を受けていたころが一番『ああ、あのころはよかった』とおもえた時期だそうです。また一代上の加藤の叔お母様(お父様・久弥さんの妹であり加藤高明さんのご夫人春路さん)も長女として同じように厳しい教育を受けて海外で活躍していたことからか、死ぬまで、絶えず美喜さんのことを励まし続けてくれたそうです。2.縁談~見合い~挙式~結婚後の生活に続く
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  • 澤田美喜(社会事業家)2.縁談~外国生活
    澤田美喜さんの生い立ちと歴史2.縁談~見合い~挙式~結婚後の生活澤田美喜さんの私の履歴書を要約した澤田美喜さんの生い立ちと歴史1.誕生~学生時代 の続きです。多方面の取材や書籍で美喜さんご自身が自分は男みたいだ・男勝り・だなどといわれてきたという表現が多いので、ここでも記載しますが周りがそう思っていたのか、本当に言われたのかは定かではありません。今後も美喜さんのエピソードよりこのような表現は続きます。また時代背景による価値観で現代にそぐわないこともございますがご了承ください縁談:外国生活にひかれ見合い岩崎家の従姉妹が華族との結婚していくにつれ美喜さんにも園遊会や音楽会などで【遠見】の気配が高まってきました。美喜さんは華族である祖先の光と地位にふさわしくない子孫たちの振る舞いがたまらなく嫌だったこともあり、それを察した周りはわずかな縁談を送ってくる程度だったそうです。その間、美喜さんは変わらず勉強と運動に励んでいました。そのうちおばあ様が心配をし、お父様お母様も娘が結婚する気になるようにと美喜さんが小さなころからあこがれていた一番気に留める【外国生活】を餌にしはじめました。お父様の妹である加藤の春路叔お母様さんや幣原の雅子叔お母様さんが美喜さんの周りで海外生活を語り、せっかく語学を習っているのだから活かすべきだとおだててきたので少しずつ心が動き始めたところ、加藤の叔お父様さんと幣原の叔お父様さんが澤田廉三さんの縁談を岩崎家に持ちかけました。この縁談は美喜さんには伝えず進めていましたが美喜さんは気づいていました。しかしいつものように聞かぬふりをしていました。そのとある日、従兄の家で見合いをすることに決まり、まだ周囲が美喜さんには話せずにいた当日の朝、お母様から今日はお茶のお客様があるそうだ。いつものように外国の方かもしれない、外務省の方も見えるかもしれないから身なりは正しく清楚にして行きましょうといわれ、『そら来たな』と思いましたが、いつもの遠見や突然の縁談とは違い事前に少し説明があったことで人権を尊重されたと思い、受け入れたそうです。お見合いの日:平凡な2時間がハレモノにさわるよういよいよお見合いの日、お母様と一緒に朝湯に入り、岡部家にいくと、加藤の叔お母様さんだけが部屋に残り、たぶらかしてしまったようだけど、今日は私たちみんなが外国生活を望む美喜さんに最もふさわしい男性を引き合わせようとして呼んだのですからそのつもりで…彼は華族ではないので安心して…と美喜さんを理解している叔お母様様からハッキリといわれたので覚悟を決めて何も言い返す受け入れたそうです。岩崎家でいうお茶の時間は3時頃だったので30分早めについたのですが、フランス帰りの廉三さんのお茶の時間は早くても4時半から5時だということで約二時間またされることとなりました。このお見合いは内密に行われていたので運転手に廉三さんとのことを帰ってお手伝いさんたちに話さないよう、廉三さん一行と鉢合わせしないためにお使いを言いつけたり忘れ物を取りにいってくるようにと言い訳を付け運転手を不在にしながらそわそわと廉三さんがやってくるのを待ちました。廉三さんとのお見合いはお互いどちらかが話して聞いて、平凡ながらもお互い観察していないようでしているような二時間が過ぎ、廉三さんが帰った後、みんな美喜さんに気を遣いハレモノに障るかのように誰も口を開かなかったそうです。このお見合いは美喜さんが22歳の時の事でした。結婚の決心:二つの願いを掛けてお見合いの次の日、その次の日も誰も何も言いませんでしたが、3日目になるとお父様が大変良いと思うから俺は決めたよ、お前が考えている外交官夫人として外国生活できるし、お前はおばあさんにいわれて口に出さなくなったキリスト教についてまだ考えているんだろう?澤田君はクリスチャンだしお前の考えている宗教に入ることもできる。岩崎家の皆がこの結婚を喜んでいる、みんなから祝福されて嫁ぐべきであると俺は思うねと言いました。美喜さんは廉三さんに対してひとめぼれしたとか夢中になってというよりは正直なところ…外国に行くこととクリスチャンになるチャンスに恵まれているし、岩崎家一同が祝福してくれるということはご先祖様も喜ばれるだろうということで『イエス!』となり、4月に見合いをし、5月に岩崎家で家族一同で会食、6月に両家のお茶会を岡部家の庭で開催し、7月1日の四回目の対面が結婚の日となりました。挙式:自由の息吹き感じる床上げから育ててくれたおばあ様の『華族の奥方に』という夢を叶えてあげられず、澤田家に嫁ぎました。岩崎家を離れてはじめて今までに味わったことがない自由感で大きな息吹きを青空につくことができた反面、古巣がたまらなく懐かしく思え、おばあ様のことで胸をうずくこともあり、女中さんに大変お世話になったことやお仕事の在り方をひしひしと思い出して懐かしくなりました。澤田家はクリスチャンなので日曜日の礼拝に一緒に行けることがとても喜びで、澤田家のお母様は田舎の小さな漁村にやってきた宣教師に洗礼された一人で、家族皆真面目でした。岩崎家では食事の際に冗談を言ったりわいわい会話をするので、つい澤田家の食卓で冗談を言ってみたところ、誰一人表情を変えない食卓、この生真面目な標準に合わせることに最初は苦労したそうです。※澤田家の様子、一緒にすると失礼ですがなんだか鳥取の県民性も感じますね。澤田家のある岩美町へ:覗きに来る村人結婚して2ヶ月経過し、お墓参りを兼ねて澤田廉三さんの実家である鳥取県岩美町に初めて訪れました。普段見ている太平洋とは違う海の美しさと松の木と島々に惹かれ、すぐにでも飛び込みたくなるほどでしたが村の人達が美喜さんに目を向けているので断念しました。澤田家の海を望む家の窓辺に座っていても居間にいても散歩しても木々の間から人の目を感じ自分は何か変なのだろうか?と本気で思ったほどだったようです(悪気はないけど興味がある村の人たちの様子、すごく想像できます)とある朝、あまりにも美しすぎる海に我慢が出来なくなり、誰もいないうちに…っと海に飛び込んだそうです。東京で生まれて『帰省する』という経験をしたことがないのでこれから自分の故郷にもなると思うと親しみがわき、毎年夏休みに岩美に帰るようになりました。村の人々は都会育ちの美喜さんに心尽くしのおもてなしをして交流しました。ある日、舟を出して1日海岸沿いを案内してくれた際に、入り江に囲まれた白い砂浜を見つけました。うしろに高い山、小さな畑が開墾してありひとめぼれをしてこの浜を手に入れることを決めたのです。それが熊井浜です。この約300坪くらいの土地に建てた小さな家『鴎鳴荘』が戦争中の疎開先になり、その後エリザベスサンダーズホームの子どもたちが毎年出かける臨海学校の宿泊地になったのです。当時は人種差別があったのですが、この入り江になったプライベートビーチだと周囲の目を気にせず思い切り海で遊べ、岩美の子供たちとも野球をしたり交流があり、卒業生は今でも美喜さんのお墓参りに岩美に訪ねてこられ熊井浜に降り立つ人もいます。その年の12月9日に横浜からアルゼンチンに向かいました。おばあ様との別れがつらく、前日にアルゼンチン生きは中止にしたいとお母様に話すと、お母様は驚いてあれほど外国に行きたいといってたではないの?妊娠のこともおばあさまが聞くと止められるので報告していないのだから…と諭され妊娠4ヶ月の美喜さんは後ろ髪を引かれる思いでアルゼンチンに向かいました。この時がおばあ様と会った最後で、出産3か月前におばあ様は生涯を閉じました。南米時代:長男誕生とゴルフ1923年、アルゼンチンに向かうため横浜からバンクーバーの渡航、ここで生まれてはじめて自分のことを一人ですることを習い、未知のことに挑戦する面白さを味わい、バンクーバーからシアトル、セントポール、シカゴ、ニューヨークと経て行く中で自由の国といえども人種差別があることも体感したようです。廉三さんの任務地であるアルゼンチンの日本公使館では日本人妻は美喜さんのみで、スペイン人の配偶者ばかりだったそうで、語学のコミュニケーションに当初は苦労したようです。また、大統領夫人との交流ではフランス語もスペイン語もわずかしか話せない美喜さん、英語が話しきれない夫人と何時間も相手を理解しようとしたりして過ごし、言葉だけでなく心と心の通じ合いの喜びを実感し、さらに出産時には言葉が通じない美喜さんの為に親日家の海軍大臣ドメックガルシャ夫妻が親切にしてくれて無事に長男が産まれましたが、それからスペイン語の学習に力を入れ夢中になって毎日3時間先生について勉強をしました。スペイン語学習だけでなくタンゴの大会に出たりゴルフを楽しんだり運動の一環で乗馬もされたようです。南米生活ではブラジルのリオデジャネイロにも3日間行きましたが美喜さんはまさか、私の将来の運命がこの国にまで伸びていこうとは夢にも思いませんでしたと語っています。※この話は戦後に続きます。北京生活:宣統皇帝夫妻(溥儀)を見るアルゼンチンの次に、北京への転任が決まった1924年、第二子を妊娠していた美喜さんは北京に向かう道中、日本に帰国して次男を出産し、先に渡航していた廉三さんを追って北京に入りました。北京について3日目、宣統皇帝(溥儀)が馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し紫禁城から逃れてきたのです。その2、3日後には皇后も、妃も廷臣たちも集まってきて公使館の一つの公邸は皇帝の住居となり、白馬に乗った皇后の散歩姿はまるで絵画から飛び出してきたような美しさだったと語っています。また北京では月に一度はキリスト教の集会に参加して過ごし、三男を出産し1927年に帰国し1928年に長女を出産し、1931年に廉三さんがイギリス・ロンドンへ転任となりました。ロンドンでの生活:運命を変える転機にロンドンへは4人の子供を連れて転任となりました。イギリスは封建的な重々しい程の落ち着きと道徳観念の強さ、信念を貫く誠実さにお父様親の教育を思い出して初めは拒否反応もありましたが次第に親しみを感じるようになったようです。美喜さんは私は生まれながらに物質的に恵まれて過ぎた家庭に育ち、望むものはすべて与えられ、得られるということに慣らされていました。言い換えてみれば物質で幸福も買えると思っていたのでした。ロンドンの生活は私の心の目を開いてくれたのでした。私は物質では買うことのできない幸せがあることに気付いてハッと立ち尽くし、心の目が拓くということは恐ろしいもので、昨日まで明るく見えてたものが急に真っ暗になってしまいます。と語っています。そう意識が変化してからは、学んだ語学を実際に使って楽しんで過ごすも、お茶、午餐、夜会、社交界の催し、賛美の繰り返しに興味がなくなりました。主人の出世のため、位置の昇格の為に心にもないことをお務めにしなければならない生活に何が残るのでしょうか?人の為、世の為になっているのでしょうか?お母様国を離れているものがどうしてお互いに親しみ合えないのでしょうか?いつもつまらない争い、表面に出なくても心と心の中にある戦いはもっと辛いものでお互いに頼り合いをするはずが、悲しい思いを見るようになり、この頃から美喜さんは不安定な生活に疑惑を持つようになり何かを求めて焦り始めていました。イギリスは社会事業がいきわたり社会福祉制度も素晴らしい国で報酬を求めないで奉仕する精神を誰もが持っている国で、美喜さんはこの中に自分が求めているものが見いだせるような気がして毎日毎日祈りの中に知らず知らずのうちに社会事業に心が開いてきたのです。日曜日ごとに通ったセルウィン司祭はとくに美喜さんの心の目を開き、とある日曜の拝礼のあとにセルウィン司祭に英国人の老夫婦を紹介され、ドライブでたどり着いたのが『ドクターバナードスホーム』でした。英国で学んだこと:毎週孤児院へ奉仕に『孤児院!?』この名を聞いて周りを見渡すと日本の孤児院とは全く違い、明るく希望のある家で子どもたちは誰一人暗い顔をしていないし清潔な衣服を身に着けてボタンも全部きちんとはめられていました。中には礼拝堂があり讃美歌が流れ、孤児特有の暗さは感じられず、教会、学校、職業指導の工場もあるので、18歳で施設を出る頃には翌日から仕事につけるほどの技術を身に着けている青年も見たそうです。美喜さんはこの仕事に神から召されたように感じ将来選ばれて私がこの仕事に入ることを許されたら、必ずこの明るいホームを日本に延長させようと心に固く誓い、このホームで週に一度奉仕活動をしました。イギリスで学んだことは『ドクターバナードスホーム』に通うことと聖ジョーンアートスクールであの有名な女優エレン・テリーの姪のエマヌエル・テリーのドラマチッククラスで絵を続けて勉強したことで、だんだんとこの世の華やかな生活から心を離し、ただただ祈りの中に将来の日本における『ドクターバナードスホーム』のやり方を考えては青写真を頭の中に描く日々となり、あっという間に3年目にはパリへの転任になりました。パリの生活:ローランサンに学ぶパリでは20世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家であるローランサンに学びました。彼女の自由で型破りで気まぐれな性格の中に優れた色彩感から勉強し、美喜さんはサロンに入選してパリでの華やかな思い出を刻んだようです。また女優のジョセフィン・ベーカーとも親交を持ち、日本人の為に色々援助をしてくれたりフランスの有名な芸術家との縁をつなげてくれたそうです。また。ノーベル賞のノーベル氏、香水のコティ氏などといった類の無い教養を身につけ、話題も豊富な社交家の人たちと過ごしたことはのちにエリザベスサンダーズホームを運営していく上で苦しい時や悲しいときに力づけてくれる思い出となったと懐古しています。夏季劇団:地方を回って施設に寄付二年半のパリ生活からニューヨークへの転任となり、ヨーロッパとは違う環境になじんできたころ、12人くらいの素人のグループであるサマーシアター(夏季劇団)を組織してニューイングランド(メイン州、バーモント州、ニュー ハンプシャー州、マサチューセッツ州、コネチカット州、ロード アイランド州)の行く先々で出た利益をその地の施設に寄付をしたことを大切な思い出としています。またニューヨーク五番街の聖トーマス教会で日本部の委員長に選ばれてニューヨーク各所の教会に講演に行き、宗教を通じてアメリカという国を見ることができたことが美喜さんを幸せな気持ちにし、その時の知人がのちにエリザベスサンダーズホームを創立、運営するときの支持者となってくださったそうです。美喜さんの履歴を拝見するとアメリカに限らずヨーロッパや、南米、北京など各地で生活をし、心と心を通じ合わせることで国外に離れても一生のかけがえのない大切な人たちになるのは真実だと思いますね。赴任中は全くエリザベスサンダーズホームの創立を考えていないので、その国を離れ、戦争があり敵国となった場所もありながらも何年も経過したのち、決意したことを応援してくれるというのは本当に善き関係なのだと思います。ジョセフィン・ベーカーの事:見返す意地に感激パリでとても親しくしてくれたジョセフィン・ベーカーがジーグフェルド・フォリーズと契約してニューヨークに来ました。その際に、アメリカ人のタクシー運転手、ホテル、アパートの管理人、共演者等すべての場所からひどい差別を受け、そばにいる美喜さんの方が怒りに震えることもあり、当の本人のジョセフィン・ベーカーは耐えていたそうです。しかし、舞台のフィナーレ時に出演者が並ぶ前にジョセフィン・ベーカーは帰ってくれと言われたことで白い皮膚の下に黒い心がある、私の黒い皮膚の下には白い心がある!と舞台に飛び上がって叫んだそうです。この時に美喜さんは美しく素晴らしい彼女の姿にとても感動したそうです。美喜さんが日本に帰国した直後に契約解除してベーカー一族みんなをフランスに呼び寄せて帰化したそうです。彼女の意地は素晴らしかった。見返してやるという意地を私はそのまま教えられて今の仕事(エリザベスサンダーズホーム等の社会活動)も今日まで信仰半分・意地半分でやり遂げてきたのです。と振り返っていました。ニューヨーク赴任は3年間でした。3.帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年に続く澤田美喜記念館とエリザベスサンダーズホームについて澤田美喜さんは、鳥取県岩美郡岩美町浦富出身の外交官であり初代国連大使の澤田廉三さんの妻で、 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で誕生しました。ご祖父様である三菱財閥創始者の岩崎彌太郎のお母様である美和さんと妻の喜勢さんから一字ずつ取り、美喜と命名されたそうです。美喜さんは聖書に興味を持ちこっそり勉強してはキリスト教を信仰していましたが岩崎家の宗教は真言宗でした。1922年に岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗します。ちなみに、妹・綾子さんは福澤諭吉の孫である堅次さんと結婚されています。澤田美喜さんは社会実業家としてエリザベスサンダーズホームの創立や聖ステパノ学園の創立をし、別荘地(臨海学校の場)として岩美町熊井浜にある鴎鳴荘を利用されていた縁から、卒業生が澤田美喜さんの墓参りに鳥取県岩美郡岩美町浦富にお墓参りに来られます。 また以前、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。また澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。エリザベスサンダーズホームとは?澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を設立しました。澤田美喜記念館とは?神奈川県中郡大磯町にある資料館で、GIベビー支援のためエリザベス・サンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校を創設した社会事業家・澤田美喜さんの収集した隠れキリシタン資料が保管されています。美喜さんは、児童養護施設エリザベス・サンダースホーム運営のかたわら、日本各地から隠れキリシタンに関する貴重な資料874点を収集していました。そのうちの約3分の1の資料が澤田美喜記念館に展示されています。またこの記念館は聖ステパノ学園(サンダースホーム)の敷地にあり、1階が展示室と受付、2階が礼拝堂となっていて庭には鐘楼がありますエリザべス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館所在地神奈川県中郡大磯町大磯1152番地
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  • 澤田美喜(社会事業家)3.帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年
    澤田美喜さんの生い立ちと歴史:帰国~終戦~戦争国際児との生活~晩年澤田美喜さんの歴史について、澤田美喜さんの生い立ちと歴史:誕生~学生時代 、2.縁談~見合い~挙式~結婚後の生活の続きです。多方面の取材や書籍で美喜さんご自身が自分は男みたいだ・男勝り・だなどといわれてきたという表現が多いので、ここでも記載しますが周りがそう思っていたのか、本当に言われたのかは定かではありません。今後も美喜さんのエピソードよりこのような表現は続きます。また時代背景による価値観で現代にそぐわないこともございますがご了承ください帰国→疎開:お母様が狭心症・三児は出征・三男戦死3年間のニューヨーク生活を終え、帰国すると日本も随分変わっていました。昭和16年暮れに太平洋戦争がはじまり12月8日の朝、廉三さんあてに電話が鳴り、短い言葉を聞いただけで美喜さんも戦争が始まったことを察し目の前が真っ暗になりました。それからは日本軍の武勲が並べられたニュースばかり聞かされる月日が流れ、これでいいのかしら?と思い悩んでいたそうです。厳しい戦況になる直前にお母様が狭心症で入院して他界し悲しみに暮れていましたが、ついで3人の男の子が戦争(学徒出陣・英語を役立て海軍の軍令部・特攻隊)に出かけていきました。孫の出征を知らず毎夜の空襲の不安も知らずに他界したお母様は幸せだったのだと思い直したそうです。一人になったお父様のことを兄妹でかわるがわる様子を見に行ってましたがまもなく疎開先の大磯の別荘が陸軍にとられてしまったので、一番下の子である娘を連れて廉三さんの故郷である鳥取県岩美町に疎開しました。お父様にも疎開するように皆で何度も何度も説得しましたが岩崎家の家長として一人でも東京に残っている親族がいるのを見ながら俺が疎開したらご先祖様に対し何の言い訳がたつか!とガンとして動かなかったようです。まさに冒頭で記載した岩崎家の真言宗の教えでご先祖様を大事にすることをおばあ様から受け継いでいる話がつながりますね。終戦の年、1945年の1月に三男の晃さんが戦死しました(公報は2年後でしたがその日の夜には親の直感なのか戦死を感じたそうです)。世界中のお母様たちが同じ悲しみを味わっているのだと思えば私一人が悲しんでいるべきではないと心を励まし耐えていったと告白しています。余談:戦争の悲しみ、痛み、怒り、様々な葛藤は個人個人それぞれあるのに全体を見たら自分だけではないからっと心を強く持つ糧になることもあれど、逆に個人的な想いを口に出せなかったことがのちにもずっと続き心に不調をきたした人もいることをこの言葉で理解が深まりました。終戦:お父様は戦犯で財産没収、進駐軍との同居鳥取県岩美町での疎開生活では疎開婦人会会長という名をもらい2000人ほどいる疎開組の女性をまとめていました。厳しい配給と自給自足、勤労奉仕の毎日で、松根油を取ったり海水で荒塩をつくったり鳥取市内に近い山の中腹でトンネルを掘っていました。この経験は美喜さんにとって尊いものを味わえたと語っています。トンネルの余談として峰の裏の方からも掘っている人がいて貫通する予定でしたがどこかで方向がずれてつながらず、終戦後、しばらくしてその穴がどうなったか見に行ったら地域の方のお芋の貯蔵所になっていたそうです。これは、和田麻太郎さんの手記の中にある『ち号作戦』の事ではないかとも思われますこうして岩美で終戦を迎え、特攻隊として出征した次男は出動する2週間前に終戦したので毛布とお米一斗(15kg)を抱えて帰ってきました。たった一人で頑張っていたお父様のいる東京へ戻りましたが、敗戦国日本に戦勝国の進駐が始まりそれから後の数年は日本にとってはもちろんのこと、岩崎家にとっても心が痛む、考え難い状況が続きました。岩崎家では無益の折衝を行わない、平和を愛する気持ちはだれにも負けないというお父様が戦犯者としてすべての財産を没収され、住居は折半で進駐軍の将校と同居することになったのです。進駐軍が滞在する洋館の方は昼夜問わず電灯をつけっぱなしで夏のような室内温度、石炭を必要以上に焚いてお酒もジャズも耐えず、夜中には庭を駆け回る女性の嬌声が聴こえたり、ピストルの練習の流れ弾が窓ガラスを破って飛び込んでくることもたびたびあったそうです。またお父様が大事に成長を見守っていたオシドリや、トンビの巣立ちをする場所でもバンバンバンっと鳥を射抜く音がしても耳をふさいで目をつぶって悔しがるしかなく、今まで70年間、不義者を出さず清く過ごしてきたこの家がめちゃくちゃに…お父様も美喜さんも敗戦国という悔し涙を流したことも何度かありました。財産もすべてとられ、家には進駐軍が滞在、しかも静かだった空間が騒々しい毎日となると計り知れない思いをされたのだと感じます。事情を知らない外部ではあらぬ噂を立てられることもあったでしょうし…混血児(当時使われていましたが現代として戦争国際児と言い換えます)のために:家庭を捨て飛び込む日本進駐が昭和20年9月15日から始まり翌年21年6月27日にはもう混血児(戦争国際児)の第一子が産まれました。その後、道端や川の中に置き捨てられた幼児たちを見た美喜さんは哀しみ、そして疑問や憤りを感じていたようです。とある日、家族の用事で列車に乗っていた時に美喜さんが座席に座っていると、荷物置き(網棚)から新聞紙に包まれた何かが落ちてきました。中をあらためると亡き子だったのです。周囲の人も駅員も美喜さんのことを疑い怪訝で目で見つめ詰問されたそうです。そう、美喜さんがこの子を産んでどこかに捨てに行くのではないかと疑いがかけられたのです。幸いなことに目撃者の援護もあり美喜さんが犯人ではないことが判明しましたがこの時に耳の中にハッキリとこの亡き子の母と思われたのなら、いっそのこと日本中の、私を母として必要としている子供たちのために母になれと啓示が聴こえ、この日から美喜さんはエリザベスサンダーズホームの創立と運営に飛び込んだのです。一週間祈り続け考え続け、18年前にイギリスで抱いた献身の決心がようやく実行に移す日が来たのですが、戦後の日本の状況や国民の将来を考えたり、一度引き受けたら一歩も後に引けない状況になる覚悟が必要なので慎重に思慮しました。この事業を終わらせないように継続するのは家庭と仕事の両立は難しいと考え、夫である廉三さんに恐る恐る相談をしたところ承諾を得ることができました。また4人の子供のうち3人(1人は戦死)は全員一人前に成長したので母としても妻としても家庭から解放されたことでこの事業に飛び込むことができたのです。まずはお父様が財産税として物納した大磯の別荘を買い戻すことが仕事でした。別荘を買い戻すための資金を美喜さん個人の名義で借金をして月々返済をしました。(このあたりの話はまた別記事で掘り下げます)色が黒いから、眼が青いから、という理由で次々と子どもたちが送られてきました。列車の中、駅の待合室、公園、大磯の街の中に置き去りにされる子達、生活苦により一家心中手前で涙ながらに母親が他のみに来た子達、誰一い拒絶することなく受け入れました。子供たちが増えていく一方で収入がおぼつかず、終戦後の財閥解体で岩崎家にはお金もなく、ただただ持っているものを売ってお金を工面しました(学生の頃にこっそり聖書を手に入れるために大事なカバンなどを売ったことが思い起こされますね。)大磯の子供たちに英語やフランス語を教える教室を開講し、家族の生活費としては十分でしたが、ホームの子供たちを食べさせていく収入は到底足りません。ありとあらゆるものを売ってミルク代にする姿をみて実の子供たちを心配させてしまいましたが、美喜さん本人はこの世に必要な人間なら国家が守ってくれる、神様が見捨てるはずがない!という信念を持っていたので心配していなかったそうです。創立当時:進駐軍ともやりあう進駐軍からすると戦争国際児の存在は隠したいので、エリザベスサンダーズホームに集中して孤児をまとめるのではなく全国にちりばめてわかりにくくするようにしてしまいたい意思がありました。しかし美喜さんは一度捨てられた子を二度捨てるということは絶対にしない!っと進駐軍の意向を聞き入れないため、あの手この手で美喜さんがホームを投げ出しギブアップするよう、全国にちりばめるよう仕向けてくる事に対し、子どもたちを必ず守る!という意志を貫いたのでした。とはいえ一人になると心も弱くなることもありそのたびにお祈りをしながらおばあ様が幼少期から吹きかけてきたおじい様のこと、三菱の興廃をかけた話を思い起こし、奮起するのでありました。試練:援助打ち切りの通告進駐軍の中にはアメリカ生活時の知人がいたり同じ教会の信者もいて、その善意の人がこっそりミルクや古着を届けてくれましたがその善意もCFAに呼ばれてエリザベスサンダーズホームに支援物資を送ることを禁じられたり、軍医の善意も長く続かず子どもたちの医療も満足にできませんでした。さらにアメリカからの寄附も止められ夜中に一人で大声で泣いたり、児童心理研究論文として悪意ある報告書を提出され、アメリカ大聖堂からの寄付を一切禁止する正式通告もされ、当時100人ほどの子供たちを抱えていた美喜さんは立ち上がりました。1952年から美喜さんは年に1回3ヶ月ほどアメリカ中を講演で周り、ラジオやテレビ取材なども含め十何年にも渡って募金活動を行い、(うち、ブラジルにも3回ほど訪問)かつて交流のあった現地の人たちは両手を広げて受け入れてくれました。もちろん様々な嘆きもありましたが知人や信者、現地の人の善意の心が美喜さんの心を支えていました。個人個人の信頼や善意は国の壁を越えますね。米国行き:混血児(戦争国際児)問題訴え・父の死第一回目のアメリカ行きはまだ占領中だったのでこの混血児(戦争国際児)問題を訴えに行くことに対してビザが下りないなどのトラブルがありました。お父様はそのころ、キャノン機関に占領された東京の家を売って千葉県の農場へ引きこもりました。先祖を大事にする岩崎家、家を手放すことはお父様にとって大変な心労だと思いましたが、めちゃくちゃになった家の環境を目の当たりにする生活になったためか思いのほか未練なく立ち去ったのです。その後気疲れがドッと出たのか心臓病を患いました。美喜さんは混血児(戦争国際児)問題を訴えて寄付を募る目的以外に戦後に起きている真実の日本の声を伝えたかったのですがお父様にもう何も未練がましくアメリカの批判をするではない、すっかり忘れてしまえ、そして子供たちの事だけをやって来いというのです。美喜さんは何も言わずに心を痛め苦しんでいたお父様の代弁をふくめ講演で言うつもりだったのに・・・本当にお父様は戦後グッと堪える人でした。お父様の数年の闘病期間、渡米の度に後ろ髪引かれる思いでいると『お前はこの仕事に捧げるんだろ!行け!』『行って来い!』と勇ましく背中を押してくれたそうです。危篤時に航空トラブルの発生で間に合わなかったのですが『仕事の為だ、行け!』と言ってくれたことと離れる前に言葉を交わしてさよならをしたので満足しようと言い聞かせました。豊かな収穫:亡き父にささぐアマゾン教室美喜さんの10数年にわたるアメリカ講演旅は様々な苦悩はありながらも善き出会いにも助けられ豊かな収穫を得ました。アメリカでは新しい養子縁組制度ができ、エリザベスサンダーズホームには礼拝堂、幼稚園、小中学校、職業教室や宿舎が建てられました。その間にブラジルには3回渡り、サンパウロ州など24か所の日本人入植地で集めた寄付金でアマゾンに土地を用意し『アマゾン教室』と名付けました。かつてアルゼンチンにいたときにお父様がブラジルの農園を買い現地で仕事と人間を作った事に敬意を持ち、お父様が遺した財産を宝にしてささげてこの地を手に入れ、これを亡きお父様に捧げることにしました。お父様の遺した農園にホームの子供を入れることもできましたが移住して定住することを考えると転々と引っ越すのではなく自分たちの手で開墾するべきだと考えたのでした。子どもたちの国:自分の手で幸福をホームのために買ったアマゾンの原始林は日本のように差別やいじめがなく、誰もが同じように働いて生きていかなければいけない国、そのため、働いた分は必ず返って来るので子供たちも夢を持ちながら築き上げることができます。美喜さんはマンゴー等のフルーツや、ランなどの美しい花を栽培して日本の銀座で綺麗に並んでいるイメージをし、子どもたちが沢山の収穫物や熱帯魚を抱えて里帰りをする姿を想いました。美喜さんはお金では買えない有事を沢山持ち、みんなエリザベスサンダーズホームの事を応援してくれています。パリで共に過ごしたジョセフィン・ベーカーは妨害に遭いながらも日本で23回公演をして全額ホームに贈ってくれたり養子を迎え入れてくれました。美喜さんはその後、ジョセフィン・ベーカーと暮らす2人の子どもたちに会いにフランスに訪ねた際、お城に住む王子様のような生活をしている姿を見て幸福に満ち溢れたようです。パール・バック女史:素晴らしい指導と教育アメリカで出会ったパール・バック女史はホームから十数名の子供を引き取り、2名は自分の元で養女として素晴らしい指導と教育を与え、、十数名は幸福な家庭に養子として入れてくれたそうです。また、小児まひの子供を米国で治療すると連れて行ってくれた上に現地の医師が養子として引き取ってくれたのです。本当に慈悲深い方たちに恵まれているなと思いますね。戦争、そして戦争後に起きた苦々しい出来事、このことを罪の無い子どもたちが背負わなくていいように美喜さんは敷地内に隔離をして幼稚園から小学校、中学校まで建設して義務教育を与えて子供たちの成長を見守りました。両親が揃っている子よりも技能も知能も高く持たせて誇りをもって生きていけるよう厳しく指導をしたこともあります。この隔離は引き離すだけの隔離ではなく、世の中に出たときに押しつぶされないように準備をするための隔離だとおっしゃっています。昭和38年1月に創立15年を迎え、第一期生は10名が難しい受験を乗り越えて16歳の高校生となりました。もちろん色んな子供がいて朗らかな子、問題のある子、スポーツ、芸術、音楽に秀でている子など、それぞれの場所で壁にぶつかった時にもみんなのつっかえ棒になるっと美喜さんは覚悟していました。おわりに:この世の財物に執着なし戦後、悪戦苦闘を繰り返しながらホームの設立に至る根源は、戦前ロンドン生活時に金銭では買うことのできない幸福があることを知り心の目を開いたからです。美喜さんの心を幸せにしたのはこの世の財物に執着心を持たなくなったことで、モノを守ろうとし、増やそうとし、これを減らさないようにし、盗まれないようにしようということから解放されたことです。私の頭の中には敗戦の運命の子を父母の有る子供以上に幸せにするということ以外に何もないと強く想い、また『ワンマンで思うことを言わせて思うがままにふるまわせて下さった方々に深く感謝しています』『この仕事に専心するよう許してくれた主人に感謝しています』と美喜さん自身が述べていました。澤田廉三さんについてはこちら澤田美喜記念館とエリザベスサンダーズホームについて澤田美喜さんは、鳥取県岩美郡岩美町浦富出身の外交官であり初代国連大使の澤田廉三さんの妻で、 岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で誕生しました。祖父である三菱財閥創始者の岩崎彌太郎のお母様である美和さんと妻の喜勢さんから一字ずつ取り、美喜と命名されたそうです。美喜さんは聖書に興味を持ちこっそり勉強してはキリスト教を信仰していましたが岩崎家の宗教は真言宗でした。1922年に岩美町出身の外交官でクリスチャンの澤田廉三さんと結婚しキリスト教に改宗します。ちなみに、妹・綾子さんは福澤諭吉の孫である堅次さんと結婚されています。澤田美喜さんは社会実業家としてエリザベスサンダーズホームの創立や聖ステパノ学園の創立をし、別荘地(臨海学校の場)として岩美町熊井浜にある鴎鳴荘を利用されていた縁から、卒業生が澤田美喜さんの墓参りに鳥取県岩美郡岩美町浦富にお墓参りに来られます。 また以前、岩美中学校が修学旅行で大磯のエリザベスサンダースホームを訪問する前に、熊井浜の鴎鳴荘の清掃をし、いわみガイドクラブの講師(岩美町歴史史家の油浅さん)から歴史を学ぶという行事が行われていました。また澤田廉三美喜夫妻のお墓は浦富海岸を望む場所にあり、澤田家に関することの管理を行っている岩美町の歴史史家の油浅さんが定期的な墓の草取りと掃除をし対応をしています。油浅さんは澤田家に関する貴重な資料や書籍も保管しておりガイドや取材なども受け付けていますのでご希望される方はお問い合わせください。エリザベスサンダーズホームとは?澤田美喜さんが創設した戦争国際児(GIベビー)の為の施設で、自らの所有物を売却し、また募金集めに奔走してかき集めて創始したそうです。ホーム出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見・迫害(現代語でいういじめ)や、学校生活との折り合いの問題など解決策を考えた際に、ホームの中に1953年に小学校・1959年に中学校を設立しました。澤田美喜記念館とは?神奈川県中郡大磯町にある資料館で、GIベビー支援のためエリザベス・サンダースホームと聖ステパノ学園小学校・中学校を創設した社会事業家・澤田美喜さんの収集した隠れキリシタン資料が保管されています。美喜さんは、児童養護施設エリザベス・サンダースホーム運営のかたわら、日本各地から隠れキリシタンに関する貴重な資料874点を収集していました。そのうちの約3分の1の資料が澤田美喜記念館に展示されています。またこの記念館は聖ステパノ学園(サンダースホーム)の敷地にあり、1階が展示室と受付、2階が礼拝堂となっていて庭には鐘楼がありますエリザべス・サンダース・ホームと澤田美喜記念館所在地神奈川県中郡大磯町大磯1152番地
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