いわみのあしあと・歴史と観光と暮らしの記録

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「 荒砂神社 」の検索結果
  • 荒砂神社・宮島・向島
    荒砂神社の歴史を知っておまいりにいこう!荒砂神社は鳥取県岩美町浦富の浦富海岸に面する岩の上にある神社です。現在は陸続きになっていますが以前は鳥居前にも波が来ることが度々あり、この島を宮島と名づけられたそうです。大神神社(おおみわじんじゃ)荒砂大明神と称されていましたが明治に荒砂神社と改称されました。鳥居をくぐり、急勾配の石段を登り境内から望む浦富海岸はとても美しく、清掃や保護活動、祭事など、地元の氏子の皆様に大切にされている神社です。アニメfree‼にも描かれているため、聖地巡礼に訪れる方も増えましたが歴史は長く、毎年例大祭が行われしめ縄づくりや榊の植樹も氏子で行っています。(下記に写真あり)荒砂神社の歴史浦富元宮町/鈴見山にありましたが806年(大同元年)8月に蒲生川が氾濫して社地社殿が被災したため、11月15日に現社地に移遷したと伝えられています。この説には大洪水で流されたご神体が浦富海岸の島の側で上がったのでそこを大神ヶ崎といい、この島を宮島といいました。また、永美久三郎という漁師さんが早朝に大神ヶ崎にて大鯛を釣ってその鯛のお腹の中から黄金の大黒天が現れ、宮島に祀ったと【稲場(因幡?)民談記】等で紹介されています。宮島の沖には向島(むこうじま)があり、二つに分かれていて、手前が小向島、松の木があるのが大向島で弁財天を祀っています。案内板には恵美須神社(事代主神と豊玉姫命と記載) この手前の小向島の西側には小規模の波食棚が見受けます。写真の奥に見える岬の先には龍神洞があります。恵比寿(恵美須)神社は七福神の恵比寿様を祀る神社で、恵比寿は事代主神(ことしろぬしのかみ)と同一視され、七福神の一柱として知られています。豊玉姫命は海神の娘で安産や子孫繁栄、また水の恵みをつかさどる神、弁財天は七福神の一柱の水の神様です現在の本殿は江戸時代文化十(1813)年に再建されたと伝えられ、五段の龍彫刻は、左甚五郎の高弟小倉円三郎の手で見事に彫られました。棟札に「当国岩井郡唐川邑住人、住居ハ鳥取立川町 文化拾歳 本棟梁 藤原小倉園三郎吉久作之 作年二拾八才」と刻まれています。例祭日:4月10日祭神:大物主(おおものぬしのかみ、:大国主命と同じ)/稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神、商売繁盛、開運厄除け、交通安全の神鳥取県では荒砂神社と美取神社との2社のみ祀られているそうです。また、五穀成就・海上安全・豊漁の神として信仰されています。所在地:鳥取県岩美町大字浦富美取神社について創建は白鳳時代とされ、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将であり尼子氏の家臣の、山中鹿之助が桐山城を拠点とし様々な活動をされた際、尼子再興の悲願成就のため荒砂神社に100本の矢を奉納しています。その矢と伝えられる二本の矢が残っていて、2019年末に氏子により額に入れ奉納しました。また鳥取藩主の池田家の家臣であった鵜殿家から寄贈された鎧兜も保存されています。明治の初め、鵜殿氏が江戸に行くとき、黒の鎧兜を荒砂神社に、赤の鎧兜を浦富の熊野神社に奉納しました。荒砂神社の鳥居の前の「両村和合繁栄」の石の常夜灯・石灯籠を寄進した松田道之とは、明治政府に出仕した鳥取藩士の中で一番の出世頭であり44歳で亡くなった時、道之は東京府知事でした。寄進の理由は、常夜灯の背面に記してあります。荒砂神社の境内と周囲の風景と例祭の様子です荒砂神社の例大祭などに関する記事も併せてごらんください。しめ縄の稲も榊も浦富地区で自作しています。荒砂神社の例大祭としめ縄準備と榊の栽培岩美町荒砂神社の2022年例大祭・鵜殿氏寄贈の鎧や兜の飾り付け荒砂神社2025年例大祭の準備でお釜神事
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  • 浦富海巌勝区八景詠について
    浦富海巌勝区八景詠について「浦富海巌勝区八景詠」は、鳥取県の浦富海岸を題材にした漢詩の連作で、歴史地誌学者である国府犀東(こくぶさいとう)によって詠まれました。この詩は、浦富海岸の美しい風景を称え、瀟湘八景(しょうしょうはっけい)という中国由来の風景鑑賞の方法を取り入れています。また「浦富海巌勝区八景詠」はわかりやすく『浦富八景』ともいわれています。国府犀東(こくぶさいとう)とは…石川県金沢市の左官職鹿島家に生まれ本名は種徳と言い、『犀東』は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来するそうです。新聞記者を経て、官僚、天然史跡名勝記念物保存委員として浦富海岸の昭和3年に「国の名勝及び天然記念物」の指定調査に関わった漢詩人であり、歴史地誌学者です詩は序詩を含めて9つの詩で構成されており、以下の八景が詠まれています屏風岩帰帆(きはん) - 帆船が帰港する情景 陸上・東浜龍神洞晴嵐(せいらん) - 晴れた日に立ち込める霧 羽尾蔵王島夕照(せきしょう) - 夕日に照らされる風景 熊井浜/牧谷荒砂祠秋月(しゅうげつ) - 秋の月夜 浦富・荒砂神社菜種島晩鐘(ばんしょう) - 夕暮れに響く鐘の音 城原海岸睡鴨磯落雁(らくがん) - 雁が舞い降りる様子 鴨ヶ磯海岸千貫松島暮雪(ぼせつ) - 夕暮れに降る雪 網代・千貫松島虚空蔵夜雨(やう) - 夜に降る雨 網代・虚空蔵山詩に関しては鳥取県文化振興財団情報誌アルテ2008年8月の画像をご確認ください。(画像クリック↓)屏風岩 帰帆(きはん) - 帆船が帰港する情景陸上岬の部分を指し、凝灰角礫岩の断崖で六曲屏風のような景観で、海上から見上げると圧倒されます。東浜展望所から集落が遠く見える風景は、陸(集落)に近い他の浦富海岸とは違う風景です。六曲屏風(ろっきょくびょうぶ)とは、6枚の画面(扇)をつなぎ合わせた屏風龍神洞 晴嵐(せいらん) - 晴れた日に立ち込める霧凝灰角礫岩(河原火砕岩層)でできた羽尾岬の先端(羽尾鼻:正式名嶋山)にある龍神洞は二つの洞窟がありますが、中で一つにつながっています。陸から入る洞窟を裏龍神、海から入る洞窟を表龍神と読んであわせて龍神洞と呼ばれていました。最近では陸の龍神洞、海の龍神洞と呼ぶ人が多くなりました。裏龍神は崩落が多く現在はいることができませんが中に入ると円礫の浜で左側から波が打ち寄せられその先に進むと砂浜になっています。角度のある断層があり、これに沿って浸食が進んだとされています。表龍神は凝灰角礫岩に安山岩系の貫入岩があり、これが崩落して洞窟ができました。幅8m高さ10m奥行き150mさらに大岩を超えると50mあわせて200mの奥行があり、山陰海岸最大の洞窟です。龍神洞の中の様子は山陰海岸ジオパーク海と大地の自然館の3D映像で観ることができます。蔵王島 夕照(せきしょう) - 夕日に照らされる風景蔵王(ぎおうじま)は熊井浜から望むことができます。荒砂祠 秋月(しゅうげつ) - 秋の月夜荒砂神社が鎮座する宮島は、現在陸続きになっていますがかつては鳥居の前にも波が来ることもありました。海に浮かぶ向島の恵比寿神社恵比寿(恵美須)神社と併せてぜひ鑑賞してください。菜種島 晩鐘(ばんしょう) - 夕暮れに響く鐘の音浦富海岸内にある城原海岸の菜種五島は、花崗岩出来た岬が長い年月をかけて浸食し、くぼみが大きくなって洞窟ができていつしか洞門になり、天井が落ちて離れ岩となって5島になり、一番大きく周囲400m高さ30mの一番大きな島を菜種島といいます。かつて菜種を積んだ船が座礁し、この島に自生したことから名づけられたという由来があります。黒松の木が茂り、ハマグルミ、トベラ、テリハノイバラのような海浜植物と共に菜の花が生育しています。睡鴨磯 落雁(すいおういそらくがん) - 雁が舞い降りる様子睡鴨磯は鴨ヶ磯といわれ、大鴨ヶ磯、椿谷、小鴨ヶ磯の3つの浜から成り立っています。鴨が磯の湾口には太郎兵衛島はじめ小さな島も沢山あり、外海に多少の波があっても湾内は静かです。太郎兵衛島のことを国府犀東は【伯良島はくろうじま】と名付けました淡紅色の石英砂(1.5mm)の浜で日によっては砂鉄が打ち上げられていることもあります。この奥にはさらに一段高い砂浜があり、その浜を離水浜といい、ずっと古い時代にできた浜で砂が黄色く風化しています。奥の崖も離水浜が形成されたときの古い海食崖です。湾の東側に小規模な波食棚があり、縦横に割れ目、節理が走っています。また西側にはノッチ(波食窪)が見られ、海底には岩の割れ目やくぼみに小石が入り、それが波によってコロコロ動いて岩を削り、だんだんと大きな穴になったポットホールも見られます。また、椿谷には柱状節理も見られます。千貫松島 暮雪(ぼせつ) - 夕暮れに降る雪網代地区の千貫松島は観光スポットしても非常に人気が高く、山陰海岸ジオパークトレイルのコースにもあり、また浦富海岸島めぐり遊覧船から間近に鑑賞することができます。この島の名の由来は、鳥取藩主の池田氏が、あの島にある美しい松をとってきて庭に植えたものに千貫差し上げようといったことからだといわれています。いわゆる、圧倒的な高額を払ってでも欲しいと思わせる美しい松の景観だったという事でしょうね。江戸時代の「千貫」の価値を令和の貨幣価値に換算するのは、物価や基準が異なるため一概には言えませんが、参考として以下の情報があります。1貫は銅銭1000枚に相当し、米の価格を基準にすると、1貫はおよそ12万円程度と試算されています。これを基にすると、千貫は約1億2000万円に相当する可能性があります。※ただし、これはあくまで目安であり、時代や地域、物価の変動によって異なる場合があります。虚空蔵 夜雨(やう) - 夜に降る雨虚空蔵山は山陰海岸ジオパークトレイルの網代側の入り口(浦富海岸自然探勝路)部分にあたります。かつて、虚空蔵山の頂上は網代の境内として知られ、その頂には虚空蔵菩薩が祀られていたとされています。さらに、山の北側に位置する断崖絶壁の海際には、通常目にするのが難しい大きな洞窟が存在しており、「海賊穴」と呼ばれていました。この洞窟には、但馬国(現在の兵庫県北部)の盗賊が潜んでいたと伝えられており、周辺地域に多大な被害を与えたとの言い伝えが残っています。浦富海岸島めぐり遊覧船では船長さんの音声ガイドで海賊穴なども観ることができます。これらの詩は、浦富海岸の自然美や歴史的背景を詩的に表現しており、地域の文化的価値を高めています。また、浦富海岸は「山陰の松島」とも呼ばれ、白砂青松の砂浜や奇岩、洞門、断崖絶壁などが点在する風光明媚な景勝地として知られていますので、この浦富八景をもとに浦富海岸沿岸をウォーキング、遊覧船と併せて鑑賞してください。浦富海岸島めぐり遊覧船
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  • 浦富海岸・浦富海水浴場について
    浦富海岸を知って遊びに行こう浦富海岸は、鳥取県岩美町に位置する日本海に面したリアス式海岸で、東西約15kmにわたって広がっています。1928年(昭和3年)3月27日に鳥取県初の名勝指定を含む国指定文化財「名勝及び天然記念物浦富海岸」となり、浦富海岸が美しいだけではなく長い歴史を持つ文化的な重要性を持つ場所で町民の方は保護活動や課外学習も行っています。また日本三景の一つ、宮城県の松島に似ていることから、山陰の松島とも称されます。(日本三景は宮城県の松島、京都の天橋立、広島の宮島です)山陰海岸国定公園に指定(1955年・昭和30年6月20日:環境大臣が指定し、都道府県が管理する)→山陰海岸国立公園に昇格(1963年・昭和38年7月15日:環境大臣が指定し、国が直接管理する)及び山陰海岸ジオパークのエリアにも認定(2010年平成22年:ユネスコ世界ジオパーク認定)されているこの美しい海岸線は、長い長い年月をかけて日本海の荒波と風雪によって浸食され、断崖絶壁、洞門、洞窟、奇岩など壮大な地形が形成され、現在も自然の力により変化し続けています。山陰海岸国立公園は、東は京都府京丹後市から西は鳥取県鳥取市に至る約75kmの海岸部(8,783ha)が指定山陰海岸ジオパークは丹後市の東端から鳥取市の西端まで、東西約120km、面積は2458.44㎢浦富海岸の中に、城原海岸といわれる地域や鴨ヶ磯海岸といわれる地域もあり、遊歩道を歩くことができ2024年現在では山陰海岸ジオパークトレイルのコースにあたり、階段を使って海岸線に降りると車で通るだけでは見ることができない風景を味わうことができます。浦富海岸の地質は主に硬い花こう岩で構成されていて、地殻変動による力が加わって多くの節理が生じ、城原海岸では特にこの節理を間近に見ることができ、鴨ヶ磯と城原海岸を結ぶ遊歩道上にある椿谷では柱状節理も確認できます。柱状節理とは?これらの節理や断層に沿って海岸の侵食が進み、角ばった形の海食崖や半島、離れ島、洞窟、洞門が形成され、海面上に大小の島や岩が散在する風景が日本三景の一つ・宮城県の松島に似ていることから「山陰の松島」と呼ばれることもあり、網代地区から【山陰松島遊覧船】が運行され海からリアス式海岸を望めます。国の名勝及び天然記念物、海域公園、日本百景(1927年・昭和2年)、日本の渚百選(1998年平成10年)日本の白砂青松100選(1987年昭和62年)にも指定されているほど美しい自然が広がりエメラルドグリーンの海は最高透明度25mとも言われ、岩や島を探検するかのようにカヤックやSUP、シュノーケルなどのマリンアクティビティが楽しめます。岩美町立渚交流館や鳥取自然体験塾にて道具をレンタルしガイド付きで体験できます。また海の状況によってはサーファーさんも訪れ波乗りを楽しまれています。浦富海水浴場の歴史浦富海水浴場は、日本で初めて海水浴が行われた場所の一つとして1894年(明治27年)に山陰地方で最初の海水浴場として開設されました。この海水浴場は、当時入り江状の遠浅で、約1.5キロメートルにわたって白砂の浜が連なる美しい場所で水は澄んでおり、県外から来られる海水浴客は、海に入っても足が見える!と感動しています。夏の日中は陸風が海に吹くので波は穏やかで、羽尾岬や牧谷海水浴場の胆振島、荒金神社前の宮島を臨む景観は、名勝浦富ならではの美しさです。荒砂神社前からアクセスする海水浴場の一角には、開設を記念する石碑が建てられており、文化財指定を示すとともに、その歴史を今に伝えています。また、岩美町にゆかりがある人物のレリーフもあるので併せてごらんください。また国指定の史跡浦富お台場公園・鳥取藩台場跡も海岸を目の前にした178号線沿いにあります。岩美町のマリンアクティビティ体験施設のご案内山陰松島遊覧 株式会社所在地 鳥取県岩美郡岩美町大谷2182TEL:0857-73-1212 / FAX: 0857-73-1261岩美町立渚交流館所在地 鳥取県岩美郡岩美町牧谷690−20TEL:0857-73-0118鳥取県自然体験塾所在地 鳥取県岩美郡岩美町牧谷690−20 渚交流館内TEL:080-4555-7301
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  • 山中幸盛(鹿介・鹿之助)
    岩美町を拠点にしていた山中幸盛(鹿之助)の生涯を知ろう!山陰の麒麟児という異名を持つ山中幸盛(鹿之助)、名言「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話がある彼の生涯には岩美町とのかかわりもありました。山中幸盛(やまなか ゆきもり:別名 鹿之介、鹿介、鹿之助)は、戦国時代の武将で、尼子家(あまごけ)に仕えた人物です。尼子家は、出雲国(現在の島根県)を中心に勢力を持っていた大名家で、尼子晴久(あまご はるひさ)が当主でした。山中幸盛は病弱な兄に変わって家督を引き継ぎ、尼子晴久の家臣として活躍し、特に「山中鹿介」として知られるようになりました。尼子家再興のために3度の大規模な運動を行いましたが、どちらも成功には至りませんでした。(でも!鳥取城にほど近い甑山城(こしきやまじょう)に拠点を移した1573年の鳥取のたのも崩れでは毛利軍の武田高信を敗走させ、9月には尼子再興軍による鳥取城の戦いにて高信の居城・鳥取城を攻略しました)、その時、城主となった山名豊国が毛利側に寝返って1ヶ月程でまた奪還されるのですが・・・・第一次尼子家再興運動は、1568年に始まりました。幸盛は22歳で月山富田城を追われたあと、京都で浪人生活を送っていましたが、尼子家の旧家臣たちと共に、尼子誠久の五男である僧侶であった尼子勝久を担ぎ、月山富田城の奪還を目指して1569年に挙兵しました。出雲国へ侵攻し、末次城を拠点に勢力を拡大しました。しかし、1571年には毛利軍によって最後の拠点である新山城が陥落し、尼子勝久は隠岐へ逃れました。末吉城に籠もり戦っていた幸盛も毛利軍・吉川元春に捕らえられましたが、隙を見て脱出に成功しました。(尼子再興軍の雲州侵攻・月山富田城の戦い・原手郡の戦い・美保関の合戦・布部山の戦い(ふべやまのたたかい))第二次尼子家再興運動は、1572年から再開です。幽閉された尾高城から脱出した幸盛は隠岐に逃れ、1572年にまた本州に戻り、但馬国に潜伏しながらゲリラ的に数々の攻防を重ねつつ、尼子勝久と共に再起を図ります。1573年に、岩美町の桐山城を拠点とし、尼子再興のために甑山城(こしきやまじょう)の戦い・鳥取のたのも崩れや尼子再興軍による鳥取城の戦い(1573年)など尼子家再興のために足掛かりを築く様々な活動を行いました。そのころ山中幸盛が桐山城下の荒砂神社に100本の矢を奉納と神社の記録に残っており、荒砂神社は、尼子再興軍の戦勝祈願を行う場としても利用され、現在も荒砂神社にはその時の矢が残されており、2019年には氏子によって額に入れ奉納されました。山中幸盛の忠義心と武勇を今に伝える貴重な遺産となっています。荒砂神社の記事に写真を掲載しているので併せてお読みください但馬山名氏の支援の消失や1575年に吉川元春と小早川隆景らの攻撃により徐々に孤立化していき1576年5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡国から撤退したことで失敗に終わりました…第三次尼子家再興運動は、1576年から始まりました。幸盛は毛利氏に仕えることを拒否し、尼子家の再興を胸に秘め、明智光秀の仲介で織田信長の後ろ盾を得て、軍資金と多数の兵を預かり明智光秀の傘下に入りました。1578年、羽柴秀吉が毛利方の上月城を落とすと、幸盛は尼子勝久と共に入城を許され、上月城を拠点として再興運動を本格化しましたが、毛利軍の30000人の大軍に包囲され、再興軍は孤立無援となり降伏を余儀なくされました。勝久やその一族は自刃し、幸盛も捕らえられ輸送中に吉川元春(毛利元就の次男)に暗殺されました。この時、上月城の救援を諦めて退却する際に秀吉が幸盛を見捨てることを惜しみ、悔いていたことを考慮すると、有能な人物だったことがうかがえますね。山中幸盛の3つにわけた再興運動は、いずれも毛利軍の強力な抵抗によって挫折しましたが彼は尼子家のために数々の戦で活躍し、その勇猛さと武勇伝で名を馳せました。山中幸盛と尼子家の関係は、主君と家臣という形で非常に強固であり、彼の忠義心と武勇は尼子家の歴史に大きな足跡を残しています。また幸盛の妻は亀井秀綱の娘で、亀井秀綱の次女は山中鹿之助の養女となり、尼子家臣の「湯新十郎」(ゆしんじゅうろう:のちの亀井茲矩)に嫁ぎました。亀井茲矩は鹿野藩初代藩主です。「湯新十郎」(ゆしんじゅうろう:のちの亀井茲矩)は、桐山城にこもっていた時に、幸盛を訪ね、尼子再興を誓いあったそうです。幸盛の子孫である鴻池直文は鴻池財閥の始祖とされている人物で、子孫だということを隠していました。直文は清酒の製造に成功し、醸造業や海運業を手掛け、大財閥である鴻池家の礎となりました。個人的な感想ですが、山中鹿之助の尼子家の再興に掛ける情熱、誓ったことを曲げない強い意志、しんがりになって勝久の命を護り逃がすこと、ずっと再興の機会を伺いながら行動してきたこと(ここでは尼子家への忠誠心といわれるが、本人の決めたことを貫く!っという初志貫徹の性分でもあると思う)はそうでありたい、と思うし現代の仕事や人間関係の中で似たようなことも経験し共感する部分もあります。山中幸盛・鹿之助は岩美でも人気の武将です山中幸盛(鹿之助)を偲び、MIDの会・いわみガイドクラブと共に例年11月には桐山登山イベントを開催していました。桐山城があった桐山の頂上にあがり、山中幸盛(鹿之助)がどんな気持ちでこの風景を眺めていたのかなどなど想いを馳せ、参道の整備や草刈りなどをしたのちに、下山してBBQをして情報交換など行っておりました。出来る限り開催を目指していましたが、いわし山ルートの大階段の傷みが大きく、危険と判断したため令和6年度以降中止となっています。浦富海岸を望む桐山城跡トレックと山麓で育てた自家製焼き芋岩美町桐山登山道の整備と梨の実桐山登山道入り口の奥市広場の草刈りをしました第13回桐山城好きな人集まれイベント開催とボランティア会員証第13回桐山城の好きな人集まれ!レポートその2第14回桐山城の好きな人集まれイベントレポート
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  • ビーチインたけそう・浦富
    ビーチインたけそう鳥取県岩美町浦富海岸、荒砂神社前に位置するビーチインたけそうさんは、海水浴・地魚料理を目的とした観光客に利用されています。冬は別途カニコースプランもあります。また近年ではアニメFree!が放映され聖地巡礼で観光客が増えてからはビーチインたけそうさんの内装もFreeファンをおもてなしする仕様になりアニメプランもできました。所在地: 〒681-0003 鳥取県岩美郡岩美町浦富2540−3電話番号: 0857-73-1231ビーチインたけそうさんの宿泊情報は岩美町観光協会HPをご確認くださいPR【ふるさと納税】特別宿泊割引券(25,000円分)岩美町限定 |鳥取県 岩美町 観光 宿 旅館 民宿 コテージ 宿泊 宿泊券 割引券 旅行【61001】 楽天で購入 【PR】鳥取県・岩美町浦富海岸シーカヤック・SUP・サーフィン体験等の予約一覧はこちら荒砂神社は歴史深い神社で創建は白鳳時代とされ、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将であり尼子氏の家臣の、山中鹿之助が桐山城を拠点とし様々な活動をされた際、尼子再興の悲願成就のため荒砂神社に100本の矢を奉納しています。現在は、アニメFree!にもたびたび登場する聖地巡礼として訪れる方も増えました。
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  • dummy
    ブエナビスタ・浦富
    ブエナビスタ・浦富鳥取県岩美町の浦富海岸に面したブエナビスタさんはジャークチキン弁当、ナンプラー丼、パイカ丼などジャマイカ料理、エスニック料理が提供されています。テイクアウトで目の前の浦富海岸で召し上がっていただくことも可能です。また親ガニのシーズンには親ガニの定食も店内にて提供されます。所在地: 〒681-0003 鳥取県岩美郡岩美町浦富2475−16営業時間: 11時から16時定休日: 水曜日電話番号: 0857-77-4379メニュー:ブエナビスタInstagram
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