太平洋戦争サイパン島にて・岩美町Tさんのこと

太平洋戦争サイパン島にて・岩美町Tさんのこと

昭和19年5月頃、太平洋戦争で海軍陸戦隊としてサイパン島に上陸した鳥取市のMさんの手記より岩美町のTさんとの戦争体験談を要約します

サイパン島で出会った岩美町Tさんの記録

鳥取県公文書館から入手した『孫や子に伝えたい戦争体験』上巻に、鳥取市のMさんの手記が掲載されていました。Mさんは昭和19年5月に海軍陸戦隊としてサイパン島に上陸されました。そこで岩美町のTさんとの敗残兵ともいう生活を迫真の思いで書かれています。サイパン島は食糧も水もなく身体が衰弱する中、ジャングルで隠れながら身を守り、とても苛酷な戦地でした。



その前にサイパン島での出来事について要約します。

 

日本は1942年前半まで太平洋戦線で連戦連勝し、広大な支配領域を築いていました。しかし、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の敗北を経て、戦局は逆転。1943年、日本は防衛ラインを後退させ「絶対国防圏」を設定。その中核がサイパン島でした。


サイパンは日本本土への空襲が可能な距離にあり、アメリカにとって戦略的拠点になるため日本はサイパンを死守すべき「絶対国防圏」の要と位置づけ、守備隊を強化しました。


1944年6月15日、アメリカ軍がサイパン島に上陸。日本側は防衛体制が不十分で、司令官の小畑英良中将も不在という混乱の中で戦闘開始、一部のベテラン部隊が善戦し、アメリカ軍に大きな損害を与えるも、物量と兵器の差は圧倒的でした。日本軍は戦車による夜襲などで反撃を試みましたが、バズーカ砲など最新兵器により壊滅しました。


日本軍は7月7日バンザイ突撃をし、アメリカ軍はそれを恐怖に思いながらも撃破、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始、7月9日に日本軍は事実上全滅。司令官斎藤義次中将らも自決。多くの民間人も「生きて虜囚の辱めを受けず」として自決を選び、アメリカ軍の説得も聞かず悲劇的な結末になりました。その自決の地でもあったのがのちに、スーサイドクリフやバンザイクリフ(岬)と呼ばれる断崖絶壁。ここに何人もの民間人が飛び降りたのです。サイパン陥落により、日本本土への空襲が本格化し戦局はさらに悪化しました。


このサイパン島での戦いは、日本にとって「絶対国防圏」の崩壊を意味し、戦争の転機となりました。民間人を巻き込んだ悲劇性も含め、今なお深い記憶として語り継がれています。

孫や子に伝えたい戦争体験内では本名が書かれています、もしこのTさんにお心当たりがある場合、鳥取県公文書館に連絡されると知りたいことが知れたり、何かの解決につながるかもしれません。

サイパン島のャングルの中を追われる日々

7月9日からは敗残兵としてジャングルの中を追われる日々でした。5ヶ月経った昭和19年12月頃、鳥取市のMさんはバンザイクリフまで追い詰められた際、民間人も軍人も一緒になって行動しる状態となっていて、子供と一緒に飛び降りする母親や、自決する軍人もいて絶体絶命状態でした。


この時に、岩美町出身のTさんと一緒で、海中に飛び込むことを諦め、岩伝いに海に降りる場所を偶然見つけ、そこを降りるとなんと!樽が漂着していたらしく、その樽に身に着けていたゲートルを巻き付けて、2人で沖へ泳いだそうです。約2時間ほど泳いだところ、敵も陣地に帰った様子だったので島に戻ることができましたが、その後、身を潜めたジャングルが敵の陣地だったようで襲撃され、その時に鳥取市のMさんと岩美町のTさんは別れてしまったようです。


その後、岩美町のTさんには会うことができず、昭和20年5月頃に収容されたMさんはしばし苛酷な労働をし、帰国の後、岩美郡に行き、あちこち訊ねたけどTさんの情報は全く得られず、もしかすると、あの樽で泳いで戻った時の襲撃で倒れたのではないかと思うとTさんの最後を見届けられなかったことが悔やまれてならない、っと言葉を残しています。


体験記を読んでいると胸がつまる思いがします。飢餓や伝染病、栄養失調、睡眠不足に恐怖心の戦地での日々を思い出すと苦しい、悔いが残る仲間との別れ、憤り、また、戦地で戦うだけでなく、医療活動、建築土木作業、営繕や配給係など様々な役割をされた人、日本で待つ家族、製造をする人たち、岩美町からもたくさんの先代が未来に生きる家族、血はつながらずとも同じ日本で生きる私たちの為に魂を尽くしたこと胸に刻み、平和を維持し、毎日を大切に生きねばと強く思います。


 

孫や子に伝えたい戦争体験新鳥取県史【孫や子に伝えたい戦争体験】を購読しました。戦地の方や、鳥取で待つ家族、戦時中戦後の暮らしなど鳥取県出身者の方の手記を読むことができます。⇒ 孫や子に伝えたい戦争体験の内容について