いわみのあしあと・歴史と観光と暮らしの記録

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「 仙英禅師(井伊直弼の師) 」の検索結果
  • 仙英ヶ丘の秋田県角館の枝垂れ桜植樹
    仙英ヶ丘に枝垂れ桜を育てる会の植樹の記録令和5年5月に植えた「国の天然記念物 秋田県角館の枝垂れ桜」が令和6年3月30日に開花しました。「仙英ヶ丘に枝垂れ桜を育てる会」が植樹から保護活動、登山道整備を行っています。この活動に関する由緒は57年前(昭和42年)に岩美町出身の初代国連大使・澤田廉三氏は国連平和の鐘と岩美中学校裏山の仙英禅師碑に由緒ある角館の枝垂れ桜を植えられました。しかし現在、桜は枯れてしまい国連にも仙英禅師碑がある仙英ヶ丘にもその姿は見当たりませんしその歴史を語る人もいません。そこで『仙英ヶ丘枝垂桜を育てる会』として再度植樹するに至ったのです。まずは登山道の整備、植樹する場所の選定と穴掘り、補強、鹿よけなど年間を通して保護から始めました。この活動を構成にも引き継いでいけるよう記録を残していきますのでもし興味を持たれた方は年に数回行う登山道整備などのイベントに参加していただけますと嬉しいです。告知は今のところ、いわみガイドクラブのFacebookページで行います。植樹が令和5年の5月5日、翌年の令和6年3月30日に無事に開花しました。仙英ヶ丘枝垂れ桜を育てる会の植樹記録は仙英ヶ丘枝垂れ桜を育てる会で植樹と整備をしました岩美中学校に秋田の天然記念物・角館の枝垂れ桜の苗木を植樹しました岩美町でコウノトリの集団を確認しました&枝垂れ桜の成長記録仙英ヶ丘の角館枝垂桜開花と由緒についてをお読みください。また、岩美駅や金峯山、鵜殿家墓地などの桜は浦富出身の和田麻太郎さんが生涯岩美町の事を想い続け、故郷に植物の苗や書籍などの贈り物を続けてこられたもののうちの一つです。岩美町の人々と歴史、自然のかかわりをもっともっと深堀して記録に残していきたいと思います。
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  • 仙英禅師(井伊直弼の師)
    仙英禅師(せんえいぜんじ)とは仙英禅師(せんえいぜんじ)は寛政6年(1794年)鳥取県岩美町浦富の坂根屋清八の次男として生まれた曹洞宗の僧侶です。1800年、わずか7歳の時に香林寺の住持本宗和尚について得度し仏門に入ったのち、1802年9歳の時に倉吉市西岩倉町の吉祥院に移って修行の旅に出たのち1821年28歳の時に吉祥院の住職を務め、その後、43歳から鳥取市の景福寺の住持をしていた48歳の時に、井伊直亮(直弼の兄であり義父)から招き入れられ彦根市の清涼寺に移りました。仙英禅師が57歳の時に36歳で彦根藩主になった井伊直弼の禅の師になり、1853年(嘉永6年)の黒船来襲による外国から開国の圧力を受ける中、精神的な支えとなり英断を促した人物として知られています。1857年、64歳で彦根の久昌寺に閉居し、元治元年の10月4日、71歳にて示寂しました。(仙英禅師は2つの年齢説があり+12歳のズレのため、19歳で得度、83歳で示寂説あり)示寂とは…菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死のこと以後、今日の日本国の発展はまさにこの決断からで、この決断の影に岩美町出身である仙英禅師がいたことについて、岩美町の我々はこの事を世界に誇って行くべきだ。と澤田廉三さんが昭和33年仙英禅師の碑を中学校裏山に建立、その10年後の昭和42年に、国連平和の鐘側に有名な角館の枝垂れ桜を植えると同時に仙英禅師碑にも同じ角館の枝垂れ桜を植えました。しかし現在、桜は枯れてしまい国連にも仙英禅師碑がある仙英ヶ丘にもその姿は見当たりませんし語る人もいません。そこで『仙英ヶ丘枝垂桜を育てる会』として再度植樹するに至りました。仙英ヶ丘枝垂れ桜を育てる会の植樹記録は仙英ヶ丘枝垂れ桜を育てる会で植樹と整備をしました岩美中学校に秋田の天然記念物・角館の枝垂れ桜の苗木を植樹しました岩美町でコウノトリの集団を確認しました&枝垂れ桜の成長記録仙英ヶ丘の角館枝垂桜開花と由緒についてをお読みください。通幻禅師・仙英禅師の顕彰碑について岩美町新井の永明寺公式ブログに詳細が記されていますのでぜひご覧下さい。 栗村哲象博士著「通幻・仙英両禅師顕彰碑物語」仙英禅師(せんえいぜんじ)は地元ではせんえいさんと呼ばれ、浦富の東境地区の公民館は【せんえい】と命名され木製の立派な看板もあり、地元の方に親しみと敬意を持たれ続けています。
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