いわみのあしあと・歴史と観光と暮らしの記録

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「 岩美町 お寺 」の検索結果
  • 永明寺
    永明寺について鳥取県岩美町新井の永明寺は道竹城の跡地に瑞應山本光寺の退居寺(隠居寺)として1652年(承応元年)に開創され、明治初期には瑞松山景福寺の隠居寺の地霊山香林寺(浦富)を合併しました。香林寺は曹洞宗通幻派の開祖通幻禅師生誕の地です。また通幻禅師と仙英禅師の「追遠碑」の掛軸も岩美町から永明寺に移されています。また地域活動の一環として座禅や写経、祈祷、仏前結婚式、演奏会、展示会なども執り行うことが可能だそうです。詳細・ご相談は永明寺に直接お問い合わせください。鳥取県 曹洞宗 松風山 永明寺鳥取県岩美郡岩美町新井2100857720777永明寺は因幡薬師霊場 第26番札所です。永明寺の薬師如来像の由来(因幡薬師霊場 第26番札所)(因幡薬師霊場とは、鳥取県で薬師信仰が盛んである地域に所在する30の霊場寺院で構成されています。)永明寺では住職がお庭を管理されていて、栽培している鳥取藩主池田家にゆかりがある大名蓮(一天四海)が夏に開花します。永明寺が住職として兼務している長谷寺には岩美町保護文化財の鳥取藩主池田家・紀州徳川家より長谷寺に寄進された大名蓮の襖絵があります。永明寺と長谷寺の関係については永明寺のブログをお読みください。永明寺と長谷寺の関わり
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  • 常智院・二上峯地蔵(町保護文化財)
    常智院・二上峯地蔵(町保護文化財)について知ろう!鳥取県岩美町岩常にある常智院は因幡西国観音霊場第八番札所である天台宗のお寺です。境内には二上峯地蔵があり昭和49年4月11日に町保護文化財に指定されました。この地蔵は現在石造りの納室にあり、その納室には文化11年(1814年)と刻まれていて旧暦7月24日の地蔵祭りの時にお寺の庭でこの二上峯地蔵を取り囲んで供養をし続けたそうです。二上峯地蔵は高さ65.5㎝、幅30㎝の板状の厚さを持った石で裏面に「二上峯地蔵応安4年」と刻まれています。正面から見ると右下部分が欠損していますが、線刻された地蔵の姿と燃え上がる炎をかたどった文様(火焔(かえん)文様)の背景は祈りのような力強さが感じられ素晴らしいです。応安4年(1371年)は山名時氏の没年ですので、時氏の死に対しての供養で建立されたものと考えられます。(鳥取市の一行寺には同じ紀年の時氏を祀るお墓があります)常智院と同じ岩常にある二上山城は山陰地方を中心に勢力を持った守護大名・戦国大名だった山名時代の創建とされ、時氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名として守護所の機能で在城したと伝えられているので、この地蔵を二上峯地蔵と称するのもわかりますね。元々福部町栗谷(栗谷峠)付近に祀られていたと伝えられていますが二上城が目の前に見える場所です。二上山城と山名時代の話二上山と二上城に関する記録と写真は二上山と二上城跡(県史跡)に掲載していますので併せてお読みください。
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  • 勧学寺
    勧学寺の歴史を知ろう鳥取県岩美町の羽尾海岸にある山陰海岸ジオパークトレイルの羽尾岬コースの入り口(昭和民宿龍神荘さん横)に位置する勧学寺は、因幡観音霊場の第九番札所として知られています。本尊は二尺五寸の十一面観音菩薩で、行基によって作られた(寄木嶋にかかりたる霊木にて刻む)と伝えられています。この観音像は、霊験あらたかで多くの信仰を集めてきました。脇士は広目天王、多聞天王です。勧学寺の歴史は古く、かつては天台宗清境寺(比叡山延暦寺)一山十二坊の一つでした。行基が開山したのち、約300年前の元禄3年、中興庵主である浄霊坊は但馬往来の通過点の細川村に浄霊橋を架け、往来の煩いを取り除きました。寛延2年(1749年)3月3日には別当龍泉院として縁起を改めて開帳、しかし、明治3年(1870年)11月に維持困難になり一時廃寺となりこの頃は大霊院末観音寺と称しました。その後、明治30年(1897年)7月、大霊院住職智光阿闍梨(仏教の位の高い僧侶や僧侶の資格を持つ者)の力により再建、現在の場所に移転されました。境内からは羽尾海岸の砂浜が一望でき、向こう岸は陸上岬と東浜海岸で海水浴シーズンには海水浴、年間通して波乗りが楽しめます。周辺には山陰海岸最大級の海食洞「龍神洞」などの自然景観もあり、この地域は、自然と歴史が融合した魅力的な場所です。〒681-0014 鳥取県岩美郡岩美町大羽尾267語句の補足「霊験あらたか」は「霊験が著しいさま」を意味する言葉で「あらたか」は「灼(あら)たか」と書きます。「灼然(しゃくぜん)」という漢字にも「神仏の利益、霊験などが著しいさま」という意味があり、「灼然」に「神仏の利益が際立っている」という意味が込められています。また霊験とは「ご利益」「利益」「利生」になります中興(ちゅうこう)は、一度衰えていたり途絶えたりしたものを復興させるという意味。別当は「別に当たる」という意味で、本来は「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味開帳とは、寺社に安置される秘仏を期間を限って公開することで、建物の維持、修復、再建費用捻出のための助成として、寺社奉行所の許可を得て行われるもの大羽尾の十一面観音菩薩と祭りについて村民の山口義則さんが観音様の功徳を世の中に広めていきたいという思いを語った記録によると、但馬の人から大羽尾には十一面観音様というあらかたなお寺様がおられるといった話が伝わっていることを知り、村民として大変うれしく思いました。戦争中には、浜辺はもとより、遠くの人々も多く参詣に来ておられ、いろいろ武運をお願いしに来られていた様子でした。昔の人の話では、漁に出て荒れてきたときなど心配な時には家族のものが船がどうなっているかを尋ねてきて『東におる船はまだ陸についていないけど安心せよ』『西に当たる船は、やがて便りがあるだろう』と導かれ大変によく当たったという事です。私たちの先祖は、本当に観音様のおかげで安心して生活をつづけてきたとおもいます。十一面観音の真言は【オンロケイジンバラ キリクソワカ】でそれぞれの梵字(サンスクリット語)の意味は唵(おん:帰命・帰依)嚕鶏(ろけい:世間)入縛羅(じばら:光明)紇哩(きり:蓮華部を象徴する種子)、娑縛訶(そわか: 成就や祈願の意)とし、直訳は「おお、世の中を照らす者よ」だそうです。つづいてただ、狸(狐)が悪事を働いて人に憑いて困らせた話を聞いています。とのこと…これは岩美の伝承話に記載します。羽尾の狸(狐)にまつわる話話を戻して大羽尾の御本尊様は、東向きに安置されています。補足:現代は御本尊の方角には、宗派や説法、慣習などによってさまざまな考え方があります。曹洞宗・臨済宗は釈迦如来を祀るため、南向きがよいとされ、浄土真宗・浄土宗・天台宗は阿弥陀如来を祀るため、東向きがよいとされ、真言宗は本山のある高野山の金剛峰寺を向けるのがよいとされ日蓮宗は特に決まった方角はないとされています。この勧学寺は天台宗であり、観音菩薩様は東か南向きに祀られるようです大羽尾の部落行事には『観音様』に関するものが多く、三夜さんの行事は1月23日、5月23日、9月23日の3回で特に5月23日の三夜さんには青年たちが観音堂に参籠し、『南無大悲観世音菩薩』と唱えて33度礼拝をし、真言【オンロケイジンバラ キリクソワカ】を唱して、心願の成就を祈り、庫裡(くり:寺院の台所や僧侶が居住する場所)で日の出まで酒宴をしてにぎやかでした。旧暦6月の17日観音祭りでは18日にかけての本尊観世音菩薩の例祭で、クジで本番・後番を定めて各々に本尊の分霊御幣を受け、僧侶は午後当番のお宅に祈念に出張します。夜は本堂尊前で護摩修行大祈祷が執行され、12時頃まで参詣者が続きます。18日は、前日に引き続き観音様の祭礼、午後5時頃より分霊の御幣を本堂に変遷する祭事があり、再度、『天下泰平・風雨順時・五穀豊穣・家内安全・心願成就』の護摩修行が執行されます御幣(ごへい)は、神道において神に捧げる幣帛(へいはく)の一種で、神様への捧げ物や神を招くための依り代として用いられます。紙または布を切り、細長い木にはさんで垂らしたもので寺や神社などで見ることができます。また7月の盆行事の最終日の17日には観音祭と称し、青年たちが主体となって33度祈念のあと、浜で盆供養の踊りをしました。33という数は、観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来しています。
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  • 仙龍寺・清正公堂
    仙龍寺と清正公「セイショコさん」についてもともとは鳥取 妙要寺(法華宗)末寺で妙躰寺といわれてましたが、鵜殿家の願いで享保11年(1726)に仙龍寺と改称し先祖の位牌を収めたとされています。明治3年に廃仏毀釈で妙要寺に併合、その後住民の要望により浦富教会として復活し、昭和63年泉仙龍寺として復活したお寺です。他教とわけている法華経の寺院ですが江戸時代の神仏習合からか清正公堂には熱心な日蓮宗の法華経信者の清正公(加藤清正)を祀る神社があり石鳥居、キツネが左右を守っています。清正公信仰(せいしょうこうしんこう)の成り立ちは、祟り説含む2つの説がありますが断定できるものはありません。この加藤清正(かとう きよまさ)の没後慶長16年(1611年)、新田開発や治水事業などの功績によって民衆から崇敬された彼を祀って所願成就を願う信仰ともされ、具体例では大工と戦士のための神様と称されて土木や建築関係の人々から強く才能を讃えられています。〒681-0003 鳥取県岩美郡岩美町浦富加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後国熊本藩初代藩主、通称は虎之助(とらのすけ)廃仏毀釈とは明治新政府の神道国教化政策に依拠しておこなわれた仏教排斥運動で仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味。仏堂・仏像・仏具・経巻などにたいして各地で起こった破壊行為のことです加藤清正と鳥取の関係について加藤清正は幼い頃に父が病死し、生活が苦しかったため、母伊都が秀吉の母なか、(または妻おね)と親戚関係にあったことから豊臣秀吉に託し妻のおねに食事などのお世話を受けていました。天正4年、15歳で元服(男子が成人になったことを示す儀式)するのですが実はその1年前の天正3年(1575)5月の長篠の戦いで、秀吉に従軍を懇願するもまだ若すぎるとして出陣を許されなかったのにかかわらず、こっそり軍に参加し、いわゆる密行出陣で武田軍を負傷させ成果をあげ秀吉も褒めていました。ただ、これを正式な初陣とは認定せず、記録上の初陣は20歳の天正9年(1581)、羽柴秀吉が2万人の大軍を率いて毛利方の吉川経家(きっかわつねいえ)が城主であった 鳥取城を攻撃し兵糧攻めにした時とされているそうです。「鳥取城渇え殺し」とも言われたあの戦いです。鳥取城近辺の風景や出来事は清正公「セイショコさん」にとってどのような記憶として刻まれていたのでしょうか…また、上記にも軽く記載しましたが加藤清正は母親が熱心な日蓮宗の法華経信者ということもあり、母・伊都が信仰する姿を見ながら、日蓮宗「妙延寺」(みょうえんじ:愛知県津島市)にて法華経と学問を教わっていました。なるほど…だから仙龍寺(日蓮宗)に清正公(セイショコ)さんが祀られているのだなあっと腑に落ちました。明治維新の神仏分離の際に加藤神社が創建されたことにより、神道による信仰も行われましたが、日清戦争・日露戦争の際に武運長久の軍神としての清正像が再構築され、太平洋戦争敗戦後、軍神とされた加藤清正は軍国主義の象徴とみなされ、清正公信仰は衰退を迎えることになったそうです。ただ、軍神としてではなく、生前からの熊本藩の初代藩主であり熊本城を築いた加藤清正の土木や農業の開拓に関する功績に対しての崇拝は今でも根強く、地域の人に愛されています。
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  • 長安寺・垣屋恒総の宝篋印塔(町史跡)
    岩美町宇治の長安寺を知ろう!鳥取県岩美郡岩美町宇治の長安寺は曹洞宗のお寺で、平安時代、岩井温泉を開湯されたとされる藤原冬久の菩提寺として建立され、その後は荒れた状態になっていましたが江戸時代に本光寺の末寺(まつじ:本山の支配下にある寺院のこと)として再興し、またその後荒廃し現在は集落の方々に管理されています。境内には浦富にかつてあった桐山城の2代目城主垣屋恒総(垣屋隠岐守恒総)の宝篋印塔(全高約120㎝・台座40㎝)が祀られています。因幡誌には長安寺境内、左の方の切岸の上にあり、高さ4尺余の宝篋印塔これなりと記されていてその位置は現在も変わっていません。垣屋隠岐守恒総は垣屋播磨守宗管の子で親子2代、秀吉公に従って因幡に来て桐山城に入りました。垣屋播磨守宗管の死後関ヶ原の戦いで西軍について破れ、紀州高野山で自害しました。光明院にお墓があり、ここ長安寺には遺髪が葬られています。法名:学窓院殿消雪宗圓大禅定門この宝篋印塔は昭和49年4月11日に町の史跡に指定されています。鳥取県岩美郡岩美町宇治609桐山城には垣屋の家臣がいましたが自害の報告を受けて、奥様と子供は家臣の手引きにより但馬西の下(兵庫県豊岡市日高)におちました。また、父である垣屋播磨守宗管(光成)の五輪塔は定善寺・垣屋八幡宮に祀られています。木造天部立像(町保護文化財)二体とも長安寺に伝えられる仏像で、様式から推定して平安時代後期のもので現在岩美町内では最も古い木像です。平成13年「8月30日に町の保護文化財に指定されました。二体とも損傷が激しく両腕や両足の先が破損していますが東部から足まで一つの材料で作った一木造(いちぼくづくり)で、一体の像の高さは130㎝で口を開けて左足を上げた姿をしており、もう一体の像の高さは115㎝で口を閉じて右足を上げる姿をしていて、左右対称の形をしています。仏像は大別して如来・菩薩・明王・天部に分けられていますがこの天部は仏法を守る役目とされ、仏法の敵と戦うことから多くは甲冑をつけた姿をしています宇治集落を含む岩井地区には通称鬼の碗といわれる白鳳時代に建てられた岩井廃寺に塔心礎(国の史跡)がのこっており、その周辺に破土器や摺り鉢、蓮華文瓦等が出土していて古代ここに立派なお寺があったことがわかります。岐阜県の延算寺に伝わる薬師如来像はもともと因幡国岩井郡岩井山にあった仏像という伝えがあり、こういったことから奈良・平安時代頃には岩井地区周辺に仏教文化が栄えていたことが想定されます。
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  • 長谷寺
    長谷寺について鳥取県岩美町長谷の長谷寺は、1783年(天明3年)に鳥取藩主池田家・紀州徳川家・御三卿田安家・加賀藩前田家などの大名家の帰依を受けて創建された岩美町の貴重な文化遺産であるお寺です。(大名蓮が描かれた襖絵:蓮池図襖は平成20年7月29日に岩美町保護文化財に指定されています)紀州藩主徳川宗直の二女で鳥取藩四代藩主池田宗康公の正室の桂香院殿久姫が帰依した道肝徹要尼和尚のために建立した尼寺で、鳥取藩主池田家の菩提寺のため檀家を持たないお寺であり、現在は新井の永明寺が兼務されて管理や保護、地域活動をされています。長谷寺(0857-72-1790)永明寺(岩美町新井)が兼務されています蓮池図について…各襖の大きさは立て172.5㎝×幅69.0㎝で群青色で描かれた池には太湖石がおかれ、大小高低それぞれ向きの違う蓮葉の中にいくつかの白蓮・紅蓮がのびのびとした筆使いで描かれカマキリやキリギリスなどの昆虫も描かれ気品と情感にあふれています。作者の明記はなく、藩絵師が描いたものと想定され、時代的に小畑稲升かと推測されているようです(定かではない)御霊屋には桂光院はじめ、五代藩主池田重寛、重寛夫人仲姫、六代藩主治道らの位牌が納められ加賀藩前田家など諸大名から寄進された延期や染織品などの資料も伝えられており、長谷寺の寺宝は、鳥取県立博物館に約100品目を寄託されています。(大名蓮が描かれた襖絵・三十三観音像・開山像が2020年7月にアライグマ被害を受けました)
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  • 定善寺・垣屋八幡宮・光成の五輪塔
    定善寺と垣屋八幡宮について鳥取県岩美町浦富に位置する定善寺は因幡観音7番札所で浄土宗のお寺です。178号線を少し東に入った門前にある垣屋八幡宮はかつての浦富桐山城主の垣屋播磨守光成(宗管)・垣屋隠岐守恒総親子を祀っています。誓正山定善寺 宗派 浄土宗鎮西派 本尊 阿弥陀如来鳥取県岩美郡岩美町浦富1507 0857-72-1354因幡桐山城主垣屋播磨守光成(宗管)は但馬の山名氏の家臣でしたが、秀吉に降伏し、以降は羽柴方として但馬・因幡国境の水軍城の桐山城に入りました。因幡山名氏・毛利氏と何度も戦い、1580年(天正8年)には桐山城を攻めてきた毛利方の総大将牛尾大蔵を撃退、その後1581年(天成9年)には秀吉の鳥取城攻撃軍に参加し、落城後に戦の功績(軍功)により巨濃郡1万石の戦国大名となりました。その後息子である恒総が文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて、行なわれた秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)にも軍勢参加し、関ヶ原の戦いでは西軍に属して断絶(改易:身分を取り上げられる)し、高野山に逃れて自害しました。父子2代で20年間治め、桐山城主となり浦富の城下町の初期の形態は垣屋時代に形成されたと考えられています。垣屋播磨守光成(宗管)の五輪塔垣屋播磨守光成(宗管)の五輪塔は平成7年9月26日に町の史跡に指定されました。石造の五輪塔を檜皮葺の祠で覆い、平成2年には瓦葺の建物で覆って保存されています。光成のお墓は桐山城内にありましたが現在地に改葬されています。鳥取藩主となった池田光仲の一族でこの地を与えられた池田加賀守政虎が居館を作るのに光成の墓が邪魔なため、埋葬されていた遺体を含め破却させるため、奉行人が掘り返したところ、三十余年を経たのにその姿はまるで生けるがごとく存じたといわれています。(ミイラ化)また、このお墓を掘り起こした奉行人はじめ従った者は俄かにケガをしたり、即死したり病気になったり狂病を発症したことから霊魂(光成)の怨念・祟りだと人々に伝えられています。垣屋隠岐守恒総の宝篋印塔は岩美町宇治の長安寺境内にあります宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、鎌倉時代中期以降に各地で造られた石造りの供養塔で、お寺などでよく見られます。方形の階段状の基壇、方形の塔身、笠、屋頂に相輪を載せた塔形で、塔身の四面に古くは梵字が刻まれています。
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  • 本庄観音堂・太田薬師堂・嶋根の水
    大岩駅周辺の本庄観音堂と太田薬師堂へ行こう!鳥取県岩美郡岩美町本庄・太田地区はJR山陰本線大岩駅下車、国道9号線の南側の集落です。この付近には古代遺跡の太田古墳群(総数23基、太田22号墳・前方後円墳約31m)享保・天保時代の道標や集落内には五輪塔など残っています。本庄観音堂は十一面観音菩薩が本尊で、以前、この中に歴史資料や貴重品などを入れておいたところ泥棒に入られて盗まれてしまったという事件があったそうで…罰当たりなことをするなと憤りを感じました。本庄観音堂:本尊 十一面観音菩薩〒681-0064 鳥取県岩美郡岩美町本庄467−5本庄の観音堂の入口付近にも道標の石碑があるのですが、開発により石碑が移動され差異があるようです。みき小田谷 ひたりゆむら さいこく(天保5年)と彫刻されています仏教の信仰対象である菩薩の一尊である十一面観音(じゅういちめんかんのん)は、頭上に11の顔、または本体の顔を合わせて11の顔を持つ姿をしていて、これは、衆生の苦しみを早く見出し、救済するためといわれています。十一面観音の梵名は「エーカダシャ・ムカ(ekadaza mukha)」で、文字通り「11の顔」を意味します。サンスクリット語では「サマンタ・ムカ」と呼ばれ、「あらゆる方向に顔を向けたもの」という意味があり、本面の顔と十方向に向けられた顔があることから十一面観音と言われています。十一面観音は観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一つでもあり、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、方形の岩の上に直立し、光背(こうはい)の周縁部にめぐらされた円相内に十一面観音を象徴する「キャ」の梵字(ぼんじ)が表れるという特徴があります。続いて太田薬師堂について記載します。太田薬師堂には目を引く楕円形の鐘があり(写真参照)天和2年と見受けるので(定かではありませんが)西暦1682年と推測されます。お堂の裏には薬師さんが降りてきたとされる石もあります。一般的に薬師如来は病気平癒の仏様とされているので集落の方も健康祈願や病気平癒を願っておまいりしています。太田薬師堂:薬師如来〒681-0063 鳥取県岩美郡岩美町太田136薬師堂に向かう集落内三叉路の石碑には左岩井湯村道・右小田谷(享保16年)と彫刻されています嶋根の水について国道9号線沿いにかつて湧き水があり、名水として知られていました。因幡誌では島根の水、岩井の水と記録されていますが地形的に「嶋」が適切だといわれています。現在は整備もされていなく、湧き水も常時見受けることもなく水質調査も行われていない為、万が一、水が見受けた際には口にしないようお気を付けください。本庄太田地区の周辺スポット美取神社吉田達男顕彰碑きなんせ岩美道竹城跡と三上兵庫頭の宝篋印塔
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