いわみのあしあと・歴史と観光と暮らしの記録

検索結果

「 岩美町 登山 」の検索結果
  • 荒金行者山
    岩美町の修験場 荒金業者山について記載します岩美町には修験道の霊場として、役行者(えんのぎょうじゃ)によって神仏混合の業場が開かれたとされる行者山があり【因幡の国が峰】といわれており、資料には山ノ神、弁財天が鎮座していると記されていました。4月3日と7月7日(近年は7月の第一日曜日)が業者山の祭事で集落の入り口に幟旗(のぼり)を立て、公民館医役行者像を掛けてお経や御詠歌をあげています。荒金集落には業者山への入り口を示す鳥居があり、その鳥居3㎞奥の業者山登山口には弁天堂があります。山頂へ登る道は銚子口、犬戻し・犬返しと呼ばれるほど険しく危険な箇所があり、以前は単独でキノコ採りなどで入山した外部の方の滑落事故や、遭難などがあり、地元の方は単独で入山することを推奨していません。また崩落個所も多く、足元も砂地で滑りやすいところや勾配もきつく、年に一度行われる地域の方とともに登山道整備を行った時の写真を最後に追記します。行者山の登山道整備年に一度の整備を兼ねた登山に仲間が参加させていただくことになり草刈り道具を持ち寄り、案内してくださる地元の方や役場の職員さんなど20名ほどで険しい修験道を登りながら道を整備した際の写真です。最後の写真は下山後に荒金コミュニティーの展示物で荒金鉱山についても改めて学びました。また石標や一丁地蔵も残され、山頂の岩窟内には行者堂と大日堂があり、元禄14年(1701年)銘を持つ役行者像や棟札などが残されています。三徳山投入堂に行った際の写真を掲載しているので併せてごらんください荒金行者山と関連あるスポット荒金行者山は伯爵大山、三徳山に続く修験場で、荒金行者山に続き、牛ヶ峰山、金峯山が最終とされています。また荒金鉱山も見学でき、写真を掲載していますので併せてご確認ください。
    Read More
  • 二上山と二上城跡(県史跡)
    二上城の歴史を知って二上山を登山しよう!鳥取県岩美町の二上城址は平成10年(1998年)4月21日に鳥取県指定文化財となりました。非常に険しい独立峰の標高346mの二上山にあった二上城は、圏内でも有数の大規模な山城で山名時氏によって、文和年間(1352年-1355年)に築城され、南北朝時代から室町時代中期にかけての約120余年、因幡国の守護所とされていました。歴史は様々な諸説がありますが、守護所が布勢天神山城へと移行したことにより、二上山周辺は荒廃し、村民は但馬山名氏(山名の総領家)に窮状を訴え、但馬山名氏一族の三上兵庫頭豊範を城主として迎え…山が険しく不便だという理由で番兵のみを残し新井の後山に道竹城を築いたこととその後時代の争いにより結果廃城したという説があり、未だ研究は続いているようです。二上山と二上城址の現地学習をしました以前、いわみガイドクラブで登山した際のレポートです。岩美町二上山頂にて二上の城と城下岩常集落の文化財を学ぶ時代背景や周囲の状況等概略を理解したうえで出発、駐車場から広域農道を約50m上って登山口に入り、そこから山道へ入ります頂上「一の平」は100m四方と広く、岩美町はほぼ見渡せ、時氏がここに堅固な山城を築いたのも頷けます。この地は但馬と因幡の境目の城であり、位置的にもこれ以上の場所はないと思われます。堅固な山城は防御にも優れていましたが、生活をするにはとても不便で山名時氏はいつしか平地に降りてしまうことになります。それでも、二上の城は戦国末期まで続いたようで「二の平」では、その時代の食器などの遺物が見つかっているそうです。二上山登山と歴史学習の写真一覧町文化財保護委員の松本美佐子さんをお招きして城の遺構や歴史解説して頂きました。貴重なお話ありがとうございます。城跡ルート図を配布していただき、二上山に登り二上城跡などの歴史を学び一の平、一の平からの扇ノ山方面、網代港、桐山城跡、羽尾岬、金峰山方面。一の平、一の平の帯曲輪、ニの平、二の平から岩常集落を眺めました。二上城は南北朝時代から室町時代中期にかけての因幡国の守護所として山名時氏により築城されたとされ、平成10年に鳥取県指定史跡となりました。写真は城跡の図とルート(今回は緑色のルートの往復:赤いルートはいま通行禁止)です。築城された時代、山は守護所という役割で様々な苦悩や緊張もある場所で荒廃してしまう歴史を経て、現代はこのような美しい岩美町の山並みや集落、海岸をゆっくり眺めながらありがたい気持ちにもなります。写真からでも岩美町の素晴らしい自然と比較的穏やかな暮らしは先代が乗り越え、守られてきたのだと思えますし、その地の歴史を学ぶことで尚更感じます。常智院・二上峯地蔵(町保護文化財)も併せてごらんください。
    Read More
  • 駟馳山登山(石畳道:県史跡)
    駟馳山を知って安全に歩いてみよう鳥取県岩美町と鳥取市の境にある駟馳山は標高314m、様々な歴史や伝説があり岩美町の暮らしを精神的に支えたシンボルでもあります。山陰海岸ジオパークトレイルコースにもなっていて、海沿いの中国自然歩道を海食崖や波食棚、奇岩を眺めながら大谷海岸から岩戸海岸に降りて鳥取砂丘まで歩くコースは登山愛好者にも人気が高いです。国道178号線沿いの石畳道の登山口から頂上まで登る事もでき、頂上からは鳥取砂丘が一望できます。また、太平洋戦争中に作られたコンクリート造りの防空監視所が残っています。(写真参照)広葉樹林で覆われていて火山のように見える山の形(姿)は福部から見ても、網代側から見てもトロイデ火山のように見えますが周囲に生じた断層と波食によって形成されたもので火山ではないとされています。また新第三紀(2,303万年前から258万年前までの時代)鳥取層群上部層の荒金火砕岩層と駟馳山砂岩泥岩層を基盤に、その上位を鮮新世(約500万年前から約258万年前までの期間)に流出した流紋岩類が覆っていますが流紋岩がどこから噴出したものかについては、現在のところ不明だそうです。南側の立岩山や二上山も同じ岩質で、もとは一つのつながった尾根で国道9号線の道に沿った断層ができて切り離され、その後の浸食で火山のような山の姿になったのです。(Wikipedia駟馳山と平成24.7.30開催の岩美町教育委員会主催の学習資料より)トロイデ火山とは粘り気のある溶岩が地上に押し出されてできた、釣鐘型をした火山です。溶岩円頂丘や鐘状火山とも呼ばれます。また福部側の山麓では化石出土の報告があり、海に面した北側には滝ヶ磯といって見事な柱状節理が見えます。荒金火砕岩の凝灰岩層を水長に貫く安山岩の岩脈は、幅150m高さ100mに達する大規模な柱状節理を形成しています。江戸時代の『因幡誌』にも霧降ガ飛泉として雨降りの時に滝ができるといわれています。実際に雨降り後にいった際に雨が流れ出ていることがありました。駟馳山峠の歴史と伝説駟馳山峠の千匹狼という伝説があり、駟馳山峠から十六本松(鳥取砂丘西端の集落)まで数え切れないほどの狼が行列になり(千匹狼)、駟馳山峠を通行する人がいると、たくさんの狼が峠を下りきるまでじっと後をつけてくるだけですが、後ろをふり返ると襲われるそうです。ある商人が駟馳山峠にて狼に襲われて木に登って逃げたところ、狼が群れになって梯子を作り、その狼梯子を登って襲ってきた年老いた狼を叩いて逃げ切った先にあった一軒家に泊めてもらうことができました。しばらくして部屋の奥で唸り声が聞こえてきたのでその家族に尋ねると、「おばあさんが梯子から落ちてケガをした」との回答、その後も唸り声が下のでしょう人が部屋を覗くと布団奈緒中でうめき声をあげる年老いた狼が寝込んでいたとの事…伝説とはいえ、本当に夜の峠越では狼がいたのではないかと思うと怖くなりますね。実際今でもイノシシはいるので注意です…駟馳山峠の名前の由来伝説駟馳山峠には三韓征伐から帰国の際に産気づいて駟馳山にこもって七日掛かって応神天皇を出産し、そのことからしちやまの名前の由来にもなっている…という伝説があり、(その他、出兵の前に福部に寄港したとか、福部の弥長神社にも「応神天皇御誕生の地」と出産時に使った井戸もあり暗算で玉のような赤ちゃんが生まれたという伝説があります)※公式には福岡の筑紫で出産したという説が有名ですねあくまでも伝説ですので 違う!などの批判は許してくださいね…。名馬生月の生誕地宇治川の戦い(、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された範頼、義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ)で先陣争いをした佐々木高綱の愛馬・生月(いけづき)の産地といわれています。また石畳道には蹄の跡とされるへこみがあり、案内板が設置されています。(ただ石畳は1811年整備なので年代にズレがあり、蹄の跡がついた石畳を遺して整備時に使用したのかどうかは不明です)駟馳山峠の石畳道江戸時代の交通路だった駟馳山峠は優な坂道の上、赤土だったので雨の日にはとても滑りやすく、通行人はとても困っていたところ、1811年(文化8年)に備前国邑久郡上山田(岡山県)の多十郎さんという男性がやってきた際にその様子を見て「民衆の難儀を救うことは仏祖報恩の道」と考え、大谷、平野、細川の庄屋や鳥取藩に工事用具の貸下げの許可を取り石畳の整備を行い1812年(文化9年)に完成したと考えられています。また、石畳を登り切った平地には茶屋があり、旅人の休憩所となっていたそうです。多十郎さんのお墓は小畑1号墳下の旧道にあります。この石畳道は改良工事により一部失われていますが、幅約5mの道の中央部幅約2m、長さ152mの石畳が遺存されていることが平成3年に確認されました。2017年には「山陰道の石畳―駟馳山峠、蒲生峠」の一部として、土木学会選奨土木遺産に選ばれ、さらに1997年(平成9年)2月28日には石畳道が県の史跡に指定されました。駟馳山峠の石畳(県史跡)駟馳山峠の松と生活駟馳山にはかつて松の木が沢山あり、麓の集落の人々の暮らしを支えていました。たとえば松の葉はお風呂の着火剤、燃料として使われており、松の葉の採集に人が出入りするので道も踏み固められ山の手入れも自然とでき、藪にはならなかったのですが生活様式の変化により、松葉が不要になり山に入る人も減り、草がたくさん生えるようになりけもの道のようになっていたと言われています。駟馳山登山口にはイノシシが降りてこないよう鉄柵があります。入山・下山する際には必ず柵を閉めるようにしてください。写真1枚目参照駟馳山近くのスポット小畑三号墳・一号墳(穴観音)町保護文化財弥長神社(大谷)浦富海岸島めぐり遊覧船大谷海岸
    Read More
  • 天神池・河合谷高原
    天神池と河合谷高原を学ぼう!河合谷高原は岩美町・国府町(現鳥取市)にまたがり、兵庫県に接した高原で面積約900ha(岩美町約30ha)の扇の山から噴出した溶岩からなる 高原一帯は大山火山灰などに厚く覆われ、表土はクロボク(黒い土)溶岩が形成した台地で安山岩でなりたち、袋川と蒲生川の分水嶺であります。標高約1000mからは岩美町の集落、浦富海岸が一望できます。日本の滝百選「雨滝」、扇ノ山・河合谷高原への観光は、令和5年8月台風7号による被災のため、当面の間立ち入り禁止となっています→ 雨滝、扇ノ山・河合谷高原の閉鎖について高原にあるススキは、かつて地域の子供が牛を連れてあがり、草を食べたりする牧場でもあり、藁ぶき屋根の材料としても使われていたそうです。この山道に水路をつけたり、牛を連れて上がったりと生活の中で大変な労力が必要だったのだなと改めて思います。江戸時代の頃から農業用水、生活用水を満たしている天神池は天保の飢饉を発端とし洗井地区出身の寺垣勘十郎氏が40年くらいかけて行った開墾事業として地元では功績を伝えられていますが、老朽化が激しくなり、平成8年から平成12年にかけて修復が完了しました。※寺垣勘十郎氏の碑は鳥越集落にあります。その天神池には休憩小屋もあり(施錠・トイレ無し)、扇ノ山に続いている道もあります。またヒゲノカズラやハウチワカエデの紅葉がみられ、偶然ですが火山礫のスコリアも見つけました。周辺にあるモヘイ(茂平)谷滝の写真も掲載します。
    Read More